悟りの一瞥体験。ある日突然起きたスピリチュアルな目覚めが私にもたらしたこと

一瞥体験_スピリチュアルな目覚め Spiritual

本日は私が約10年ほど前に体験した神秘体験、いわゆる『悟りの一瞥体験』について話したいと思います。

まず、一瞥体験・神秘体験という言葉になじみがない方のために、先に一言でゆってしまうと、一瞥体験・神秘体験というのは、「スピリチュアルな目覚め」のことです。

「一瞥体験」と「悟り」を同じ意味で使う方もいらっしゃいますが、私の場合、持続的な悟り・覚醒の状態に常にいるわけではなく、あくまでの「悟りの一瞥体験」を一度だけ経験したということです。一瞬、悟った状態にいて、またしばらくして普通の意識状態に戻ったということですね。

ですので、あくまでも精神世界でいわれている悟りの世界を「かいま見た」という意味での『一瞥』体験だということにご留意ください。

一瞥体験で経験する圧倒的な目覚めが持続・定着することを「覚醒状態」「悟り状態」と言ったりするそうで、この覚醒している人がスピリチュアルリーダーになったり、非二元(ノンデュアリティ)を常時生きることができる人だと言われています。正直なところ、非二元については私はよくわからないのでパスします。

しつこく再度お伝えしておきますが、私の場合目覚めは定着しておらず、覚醒もしていません。つまり、いたって普通の人間です。

元々スピリチュアルに興味のある人は、一瞥体験や覚醒体験を経験するとその経験を元に、色々活動していく方が多いと思うのですけど、私の場合は本来スピリチュアルに興味がなかった人間です。ステータスのためにそれなりに良いとされている大学に入り、経済的・社会的メリットの点から弁護士になろうと考えていた人間です。で、思い立って方向転換してデザイン業界に飛び込んでからも、自分の立身出世を目指していました。つまり、精神的に成長することにはそもそも興味が向いていなくて、私利私欲にフォーカスしていた人生だったといえます。

そして一瞥体験後は、さすがに強制的なスピリチュアルな目覚めがあっただけに、出世欲は極限まで薄れ、お金持ちになること自体にも興味がなくなりました。

それまでの会社勤めや日本社会の中で過ごすことに魅力を感じなくなり、海外1人旅をするようになり、そのあと結果的に2年間ヨーロッパで暮らし、また最近日本に戻ってきました。その間、かなり浮世離れをしていた数年間を過ごしていたといえます。

でも最近、色々な心境の変化があり、やはりこの世界は面白いんだと、また思いはじめてきました。占星術や神社に興味を持ち始めたのも、現世的に幸せになることに興味が湧いてきたからだといえます。この世界で健全に自分を活かして社会活動をしていきたい、そんな思いがまた戻ってきたのです。

ということで、一瞥体験後も特にスピリチュアルな活動をせずに、どちらかとゆうと世俗的な自己実現を目指していく立場として、今日は私に起こった体験をシェアしたいと思います。

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体験談の前に。一瞥体験後の「探求の終わり」について

確かに私は一瞥体験で圧倒的な癒しを体験したし、世界観がひっくり返ったと断言できる忘れられない経験をしました。が、一瞥体験後に私の人生がスピリチュアルな方向に突き進んでいったかというとそうでもないとゆうのが本当のところです。

英語の勉強を始めたり、一人旅にハマったり、その結果海外に住むことになったりとどちらかというと変わらず現世的な行動をとってきた方だといえます。

私と同じような一瞥体験をした人が、セッションやカウンセリングを始めているのをたまに拝見しますが、あまり共感できないメッセージがあるなぁと思うこともよくあります。さらには、現実世界を軽視する傾向にある精神世界系のコミュニティには昔も今も否定的です。単純に好みの問題でもあると思うのですけど、自分のポジションとしては、スピリチュアル業界に深くコミットできるタイプの人間ではないかなと自覚しています。

もちろん、本物のスピリチュアルリーダーは確かにいると思うし、タメになる貴重な情報を発信してくれている人がたくさんいることも事実なのですが。

ではなぜ、今回、自分の体験をシェアしようと思ったかというと、もしかしたら私の体験を話すこと自体が、同じような体験をした人や、いつか体験するかもしれない人にとって、何か役に立つかもしれないと思ったからです。それと何よりも、私自身、一瞥体験後の個人的探求みたいなものがひとまず終わったと最近感じたからです。

もともとスピリチュアルなことに興味がなかったし周りにシェアできる知り合いもいなかったため、一瞥体験の意味ワカラナサを誰かと分かち合うことはできず、体験後も私は完全に1人でその世界を探求してきました。

一瞥体験、神秘体験という言葉も、体験後に色々と本を読み漁って、はじめてそういう現象が精神世界にはあるということがわかったぐらいです。

誰かに相談することもなかったし、相談したところでどう考えてもあの体験のリアルな感覚を伝えることはできないなと、勝手に諦めの気持ちになって、暗中模索・五里霧中で進んできたといえます。いや、模索してきたというか、もう時間の経過が何かを解決したのだと思います。

でも実は何を解決したのかはわかっていません。

ただ、一瞥体験後からゆるやかにずーっと続いていた孤独な探求が終わった、もうこれからはこの現世で普通に楽しんで生きていこうとふと思える瞬間がありました。普通に暮らすことを楽しもうと思ったんですね。

さて、探求して何がわかったかというと、特に何もわかってないんです、笑。

自分の辿ってきた道があっているかどうかわからないし、そもそもそこに正解があるかどうかにも関心がないのですが、また今後の記事で探求のなかの道のりのことはシェアできればいいなとも思います。

とりあえず今日は、私の一瞥体験はこうだった、という体験談を中心に振り返ってお伝えできればと思います。

ではまずはじめに一瞥体験をする前の私自身のことについて話していきます。

一瞥体験前の自分のこと

2008年のことです(2009年かも。微妙な境目)。

当時私は、猛烈に働いていて深夜までは当たり前、締め切りで徹夜をすることも日常的にある生活を送っていました。 仕事自体はやりがいもあったし、上司も心から尊敬していたので、このまま頑張って一人前になって、出世して独立して社会人として成功するんだ、と奮闘していました。

せっせと仕事に関する資料や書籍を買い集めては勉強して、時間が少しでもあれば、学びの場に足を運んだり、日々業界の最新情報もフォローして、といった感じで四六時中仕事のことを考えていました。

でもその一方で、底知れない虚無感というかアホらしさというか、心のすっごい深いどこかで「全然これじゃない」っていう声がなんとなく静かに、でもしつこく、聞こえていました。

日常レベルでは、仕事の業務を楽しんでるし、社会人をやっているということに疑問を感じずに過ごしてます。それなのに、すごい違和感がある。なんか違う、なんか違う、みたいなことを自分の中の何かが感じていたんですね。

で、そんな感じで「対外的な自分」と「なんか違うと感じている内側の自分」の解離感が日に日に大きくなっていくなかで、普段は普通に仕事をしつつも、仕事だけでなく日常への興味も失っていきました。

生きることについて根本的な疑問を感じる毎日を過ごすようになり、哲学的な問題が頭から離れないようになりました。生死についてだったり、生きる意味などを考えているうちに、存在していること自体がすごい不自然に思えてきたのです。当時は哲学や仏教書や古典文学などに答えを求めていました。

幸い当時の上司がそれらの分野に造詣の深い人で、色々な話題を語り合うことができたのは本当に幸運だったと今になって思います。

私は元々かなり楽天的で物事を重く受け止めないタイプなので、はじめは一時的なものだと思っていましたが、何かを探している自分の気持ちが一向に冷めることはなく、一時のものではないことに自分が一番驚いていました。

その状態が半年以上続いていたと思います。

そして、普段、人と仕事の話をしたり雑談をしたりするその会話の内容と、自分の頭にこびりついている根源的な疑問の内容の差が大きくなればなるほど、私はバランスを取れなくなってきました。

変わらず仕事は続けていました。でも自分がいったい毎日を何をしているのかわからない、なぜ自分が存在しているのかわからない、何もかもワカラナイという状態が続き、少しずつ変になっていきました。

ついには、壁一面に巨大な蜘蛛が張り付いていると思って悲壮な恐れを抱いたり、線路から呼ばれる声がして吸い込まれるように近づいていったあと少しで線路に飛び込みそうになったり、今思うとかなりやばい精神状態に陥っていたように思います。

さらに、感覚が尋常じゃなく研ぎ澄まされていき、すべての感覚が自分自身に突き刺さるようになりました。

人の何気ない視線や一言が、ほんとにナイフで刺されたように自分自身のハートに突き刺さり、普通に立っていられないぐらい傷つくようになっていったのです。言葉で人は人を切ることができるのだということを身をもって知ったのもこのときです。

ある日、人は誰でも死ぬときは1人なんだという思いが、これまで感じたことのない孤独感をもって私を襲いました。それまで、人間はいつか死ぬということももちろん知っていたのですけど、その当時のピンと張り詰めた精神状態では、その孤独感はもう生き殺しの刑みたいな、どこにも助けを求められないもう断崖絶壁であとは落ちるしかない、という絶望感でした。

そんな状態で仕事を続けているわけですから、当然仕事も以前みたいに普通にできなくなってきていたのですけど、なんとか普通を装って過ごしていました。

でもある日仕事中に大人数を前に話す機会があってその最中に自分のロジックが全くなくなっていることに気づきます。何を話しているのかワカラナイ、なぜここにいるんだろう、この人たちはだれだろう、自分はだれだ。。。

体調が悪いフリをして逃げるように退散しましたが、いよいよ自分が本当にやばいことになっていると感じました。その後、その仕事の粗相に対して、当時とても信頼していた上司から突き放された一言を耳にして、もう自分は存在してはいけないんだと強く思うようになりました。(今となっては上司の一言もそんなひどいことを多分言ったわけじゃないとわかるけど、結局何を言われても突き刺さっていた精神状態だったのだと思います。)

当時の自分の感覚を今はもうリアルには思い出せないのですけど、どのくらい切羽詰まっていたかは、私が当時「赤信号」だけが救いの場所だったことからわかります。赤信号だったら「前に進まなくていい」ですよね。「止まっていてもいい」というそのわずかな数十秒が私にとって唯一何もしなくていい、何も考えなくていい時間だったのです。進まなくていいということに正当性があるし、誰にも責められないはずだ。ここには立っていていいんだという、唯一自分が許されている時間だったと記憶しています。

私がここで強調しておきたいことは、私のこれらの出来事そのものがポイントなのではなく、私の感受性が当時の自分にとっての極限まで張り詰めていたというメンタル面です。これは一般的にうつ病とか何かしらの精神病といわれているのだろうと思います。ただ、病名をつけることに意味がないと思うし、当時の信じがたいほどのシリアスさやあらゆることに対する不安感、不信感、解離感は簡単に言葉で表せない底知れないほどのマイナスのパワーを持っていたように思います。

私よりも心身ともに絶望的な体験をしている人はもちろんいるし、もっともっと過酷な経験をしている人ももちろんいます。自分の労働環境は良くはなかったですが、もっとひどいところはいくらでもあるだろうし、一連の苦悩も新米社会人としてありがちな自分探しだったともいえます。

ただ、その当時の自分にとっては、何かもがシリアスで、人の軽い一言で何時間も涙を流してしまう脆さをもっていたということ、それと同時にこの世界に対して果てしない解離感を感じていたために誰にも助けを求めることができない状態だったということです。ハートはちゃんと傷つくのに目の前の世界はモノクロで、そこに自分が参加している感覚が全くなかったのです。

絶望を受け入れた後のどんでん返し

精神状態がますます悪くなっていくなかで、仕事でも信用を失うような状態になり、もう人目に出ることも許されない、自分はもう社会にいたらダメな存在だと追い詰めるようになっていったその数日後、通勤電車に乗っている際に、空をぼーっと眺めていました。

流れる景色を見つつ、落ちきった気持ちを他人事のように感じていたとき、ふと前向きな気持ちが出てきました。

「もういまの状況は変わらないのだから、とりあえずこの状況を受け入れるしかないんじゃないか。」

「どうなるかわからないけどもう諦めよう、どうにでもなればいい」

と半ば投げやりになって、もうどうでもいいや、なんでもいいやと思ったのです。

そして、自分の中から、ふわっと何かが抜けた気がしました。

その瞬間、起こったのです。

これから話すことはトータル1秒ぐらいで起きたことです。そしてここからぶっ飛んだ話になりますので、信じられない人は信じなくても全然いいです。エンターテイメントとして面白がってもらってもいいです。でも、本当に起きた話です。

窓の景色の先にあった大木が一瞬バァーと光を放射したと思ったかと思うと、木が大爆発したかのようにその大きな塊が一気に私のほうに飛んできました。

とその瞬間、目の前で光が旋回するように自分を包み、その光がそのまま自分の内側に入ってきたのです。そのとき、私は自分自身が光と一体になったように感じました。

そしてその光と一緒に、というか光としての自分が持ち上げられて、これまた一瞬で上空に吹き飛ばされたのです。

そしてそのまま、ほぼ同時と言ってもいいぐらいの同時性で宇宙に飛んでいきました。はっきりと宇宙とわかったわけではありませんが、とにかく地球を突き抜けた感覚がありました。

(だいぶぶっ飛んでますよね。内容的にも物理的にも。)

そして、宇宙(らしきところ)から地球を見下ろして、何か自分の記憶ではない映像みたいな走馬灯のようなものが一瞬駆け巡りました。

その映像みたいなものが一瞬で去ったあと、声が聞こえました。

声というより、そのとき自分が浮かんでいた宇宙空間全体で響いていた大きな音と言えます。ヴォイス。サウンド。足の先から頭のてっぺんまで全身に広く深く響いてくるような音。

で、その音が表現していること、伝えようとしていることが、なぜか瞬時にわかったんですね。これを日本語にしてしまうのが、すごい陳腐に聞こえて嫌なのですが、表現していることは明確でした。

『すべては愛。すべてはひとつ』

この意味を私は本当に本当にその瞬間に同時に理解して、そうだった、そうだったよな、とまるで知っていたのにずっと忘れていたような、久々に思い出したような感覚でした。そして、果てしなく深い安堵を味わいました。

死への恐怖が消え去って、これまで世界は敵だらけと感じていた感覚もなくなり、孤独感も消えて、そもそも自分が世界のすべてだったのだと当たり前のように気づいたのです。

そして、諸々の不安や恐怖がぜんぶサァーーーーってなくなっていった感覚を味わったと思ったら、、、電車で変わらず窓の向こうを眺めている自分に戻っていました。

そして私は涙を大量に流していたのです。

 

なに、いまの。。。

 

大木から光が放射されて、最後涙を流している自分に気づくまで、時間軸で言うと一秒もなかったと思います。もちろん、周りにいた人には光は見えていませんし、電車の天井を実際にぶち破って宇宙に飛んでいったわけではありません。

でも、行ったのです。確かに。で、音を聞いた。何かとてつもなく大きなものに包まれた。一瞬にして、いろんなものが抜け落ちた。

電車の中に戻ったときに、直前まで感じていた落ち込みや苦しみは完全になくなっていました。すべては絶対的に大丈夫なんだという気持ちが自分自身を満たしていました。

完全なる愛、とゆう言葉はスピリチュアルすぎて言うのも恥ずかしくなるのですけど、それしか表現のしようがない。

この一連の出来事が終わって、電車の中で変わらず窓の景色を眺めている自分に気づいたとき、めちゃくちゃ周りをキョロキョロしました。自分の感覚としては実際には起こったことだったので、周りの電車の乗客の人が普通にあの光を見ずにいることが理解できませんでした。

「今の見ましたよね!?見ましたよね!?宇宙飛んでいきましたよね!?」とは言いませんでしたが、誰か同じことを今体験した人がいたら、同じようにキョロキョロして事の真実を確かめようとするはずだと。

でも、乗客の人はいたって何事もなく、それぞれスマホいじったり本を読んだり寝てたりいつも通りです。名もなき市民に誰かが壮大なドッキリをするとは考えられず、自分だけが体験したことなのだと受け入れました。そして、何事もなかったかのようにいつも通り、出勤しました。

以上が、私の一瞥体験です。たった一秒ほどです。

そして、この一秒ほどの体験の余韻が、私を今も生かしているのです。

あの光が私の中で今も生きているのです。

一瞥体験の落とし穴

実はこの強烈な一瞥体験後の数日間は、摩訶不思議なことがたくさん起こりました。

音楽を聴くと、一つ一つの音が命をもっていることがわかったし、その作者が伝えたかった生命の喜びがダイレクトに響いてきました(モーツァルトが特にすごかった)。

歩いていると太陽に照らされている植物が歌を歌っているのがわかって、自分も喜ばずにはいられない。自分の目の前に人が存在しているということ自体が嬉しくてたまらない。その人がいま生きているということが嬉しすぎる。何をしていても、何を見ても、何を聞いても世界が愛に満ち溢れていて、涙を流さずにはいられない、という状態が数日続きました。

世界が文字通り生まれ変わったような、至福の数日感でした。

スピリチュアルな修行をしている人からすると、特に修行をすることもなく、突然こんな神秘体験ができるなんてラッキーだと思われることもあります。

でも、一瞥体験後の至福の体験は徐々になくなり、普段の感覚が戻ってきます。そして、いつも通りの生活になります。

もちろん、一瞥体験の時の気づきは自分の中に残っているし、それが薄まることもなかったのですが、実際的に日常はやってくるわけです。その時に出くわすのが、神秘体験をしたあと特有の虚無感です。

確かに、私は一瞥体験がなかったら、どうやってあの後の人生を過ごすことができたのが想像もつかないし、あの体験がきっかけで広い世界を見てみようと思えるようになったので、色々な意味で本当に生涯忘れられないありがたい経験だと思っています。

ただ、圧倒的な癒し、圧倒的な自己受容を経験し、ぜんぶそのままでいいんだという気づきを得たことが悪い方向に進んで、その後、かなり長い期間虚無感を感じていたことも事実です。

この世は幻想ということがわかると、この世のゲームを楽しむ前に、幻想なら何しても結局意味ないよねって思うようになってしまいました。

何もなくてもそれでいいと思ってしまうんですね。とはいえ、私の場合、虚無の状態からとにかく動こうと思って、旅行に行ったり、英語の勉強始めたり結果的にイギリスで暮らすことになるのですが、その流れの中でも、ぜんぶ意味ないよねっていう気持ちはいつも通底して流れているのです。

そして私はスピリチュアルリーダーのアドバイスを直接受けることもなく、ただ書籍を読むことで、この確かな感触のある現世と空である世界を彷徨ってきました。

図らずして一瞥体験を経験した人は特に、私のような虚無感に陥ることがよくあるそうです。その地点でさらに病んでしまう人もいるそうなので、そういう意味では私は幸いなことに比較的現実的に過ごせてきたのではないかと思います。だいぶ遠回りはしてますけどね。

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この世界でもう一度生き直すということ

そして私は一瞥体験後、8年ほどこの世界でゆるやかな矛盾と葛藤を経つつ、最近やっと吹っ切れて(まだ100%じゃないけど)もう一度この世界で心からワクワクして生きていくことを決意したところだといえます。

ある時期世俗的なものをかなり毛嫌いした時期もあったし、出家するしかないと思ったこともあったし、お金もほんとにどうでもいいと思っていたし、それまで仲よかった友人や大事な人も自分にとって遠い存在になったし、色々なことが別にネガティブな意味ではなく大したことじゃなくなったのです。All is OK, No prblemの世界ですね。

一瞥体験のあと、しばらくして事の重大さに気づいて、調べ始めて色々なことがわかるようになったけど、それすらも、「ふーん、なるほどね」ぐらいの感じだったと思います。

ただ、同時に何か動き続けなければいけないとも思っていました。当時の自分なりに、何かを考えて最善だと思った道を選択してきたとは思います。

で、巡り巡って海外生活をして、去年日本に帰ってきて、この数年を振り返ったとき、自分が一瞥体験で聞いた「世界は愛で成り立っている」ということを、記憶としてはわかっていてもそれを体現していなかったことに気づきました。あんなに確信的に真理を掴んだはずだったのに、ほとんど体現できていなかったのです。

で、なぜ体現できていなかったのか。それは、ずっとあの一瞥体験に執着していたことに起因しているのではないかと思います。物事を直接的に見ることよりも、何かにつけてあの時の体験と比較してしまう。超えるものが出てこない。

世界は愛で成り立っていて、一つなんだから、それを信じて生きていけばうまくいくはずだ、と結局のところ、あらゆることを一瞥体験をベースにして物事を考えていたんですね。一瞥体験的に正しいことをしようとしていた、といえます。

でも日本に戻ってきて、すっごい自分がそれに捉われていたことに気づいて、突然おかしくてしょうがなくなりました。人間のエゴの滑稽さに拍手喝采、自分のしてきたことがおかしくて一周回って愛しくさえ感じられたのです。

そして「普通にもっとこの世界を存分に味わってもいいじゃんか」と思うに至ったのです。

それが、この記事の冒頭あたりで述べた「一瞥体験後の個人的探求がひとまず終わったと最近感じた」というところに繋がります。

一瞥体験で私は一度生まれ変わり、帰国後にまた生まれなおしたのではないかと思います、メンタル的に。

私にできること

一瞥体験の記憶は、薄れていきます。もちろん一生忘れることはないと思いますが、単純に脳の記憶は薄れていくので、当時のことをリアルな感覚では想起できなくなってきます。

でも、生きることに対しての信頼というのは、あれ以来一度も、それこそ一秒も揺らいでいません。世界に対する信頼。人に対する信頼。生への信頼。

私自身の未熟さ、エゴゆえに、色々と今も迷走はしていますが、私の中にはやはりまだあの時の光が流れていて、それはすでに私の一部になっていて、この先消えてしまうものではないだろうとも思います。

ホラー映画は今でも怖いし、外国にいったらやっぱり怖いし、死ぬときにはできる限り苦しまずに死んでいきたいと思います。

でも、死のあとには戻る場所があるという感覚が確かすぎるぐらいに根底にある。だから、死んだら帰るだけだしな、っという感覚が本気で根付いているのです。

残念ながら、一瞥体験のあとに特別なスピリチュアルパワーが開花したとも思えないし、なにか成功したわけでもない。むしろ失敗続きです。

だからこそ、この世界でこれからも色々と挑戦していきたいし、どうせなら色々な経験をして死んでいったほうが人生楽しいだろうとも思います。

一瞥体験をしたからと言って、私には正直何か強く伝えたいことがあるわけではありません。わからないことが多すぎる。社会的規範の思考で考えたら、宇宙に飛ぶとかないですよね、普通。

ただ、もし、一瞥体験前の当時の自分みたいに「世界はみんな敵で、自分は存在する価値がない」と思っている人がいるのであれば、もっと世界は信じるに値するし、あなたも存在する価値があるし、全くもってそのままでいいんだということを、目をまっすぐ見て言おうとそれだけは決めています。できれば相手の両肩をがっしり掴んで。

まぁそれが救いになるかはわからないのですけど、そう言ってくれる人が当時1人でもいたら心強かっただろうなと思うからです。嘘でも本当でもどっちでもいいから、何かそういう言葉を「誰か」に言われることを、当時の自分は無意識ながら待っていたように思うんですよね。

もっと自分を大事にしていいし、そこにいるだけでいいんですよね、本当は。

さっき一瞥体験の関連記事また書きますと言ったけど、もう書かないような気がする。なんとなく。

では、本日はこのあたりで。

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