こんにちは、サリーです。
本日は、私が約10年ほど前にある日突然経験した神秘体験、いわゆる『悟りの一瞥体験/覚醒体験』について話したいと思います。
一瞥体験前のきっかけ・兆しはどんなものだったか、そして実際に起きた目覚めの体験がどんな様子だったか、一瞥体験を経て自分がどう変わったかなど、一個人の体験記録です。
スピリチュルな覚醒や一瞥体験に関心のある人、そして実際に一瞥体験をして現在混乱している人のお役に立てましたら幸いです。
目次
一瞥体験とは?スピリチュアルな覚醒とは?
まず「一瞥体験/神秘体験」という言葉になじみがない方のために、一瞥体験・神秘体験とは何なのかを一言でいうと、「スピリチュアルな覚醒・目覚め」のことです。”ニルヴァーナの世界”、つまりこの世界のすべては遍く愛であることに魂レベルで気づく体験、といったところでしょうか。
「一瞥体験」と「悟り」を同じ意味で使う方もいらっしゃるかと思うのですが、私の場合、持続的な悟り・覚醒の状態に常にいるわけではなく、あくまで「一瞥(=ちらっと見る、という意味)」の覚醒体験であったということです。
つまり、一瞬、悟りのような状態になり、またしばらくして通常の意識状態に戻る、という一時的な覚醒体験。精神世界でいわれている悟りの世界を「かいま見た」という意味での『一瞥』体験として本記事ではお伝えしたいと思います。
私の場合目覚めは定着しておらず、持続的な覚醒ではありません。つまり、いたって普通の人間です。私は悟りました、なんてこと口が裂けても言えません、笑
元々スピリチュアルな事柄に興味のある人は、一瞥体験や覚醒体験を経験するとその経験を元に何らかの活動をする方が多いのかなという印象ですが、私の場合本来スピリチュアルな世界に本当に全く興味がなかった人間です。社会人として世俗的に成功することを目指していました。
ただ一瞥体験後は強制的なスピリチュアル感覚の覚醒があったためか、結果として現世でのさまざまな欲が薄れ、以前は漠然と目指していた”成功”を目指すことにも興味が本当になくなりました。
それまでの社会の中で過ごすことにも関心がなくなり、会社を辞め、フリーランスで働き、海外で1人旅をするようになり、そのあと結果的に2年ほど海外で暮らし、そのあともあちこち放浪しつつ、再び日本に戻ってきました。
一瞥体験後しばらく続いた”至福状態”が消えてからはしばらく厭世主義に陥ってしまい、いま思うと完全に世捨て人状態で生きていたのですが(笑)、そこから再びさまざまな心境の変化があり「この世界を普通に楽しんで生きよう」という感覚が戻ってきたのがつい最近のこと。
ということで、一瞥体験後も非二元のお話などを誰かに伝えるわけでもなく、どちらかと言うと社会での自己実現を元々重視している立場として、今日は私に起こった体験をシェアしたいと思います。
一瞥体験前の兆し。当時の状況について
2008年〜2009年のこと(だと思う)。
当時私は猛烈に働いていて深夜までは当たり前、業務の納期の都合で徹夜をすることもごく普通にある生活を送っていました。 仕事自体はやりがいもありましたし上司も尊敬していたので、このまま頑張って一人前になって独立して成功するんだ、と奮闘していました。
仕事に関することを日々せっせと勉強し、時間が少しでもあれば学びの場に足を運んだり、業界の最新情報もフォローして、といった感じで本当に”四六時中”仕事のことを考えていました。
でもその一方で、底知れない虚無感というかアホらしさというか、心のとても深いどこかでは「全然これじゃない」という感覚が静かに、でもしつこく、漂っていたように思います。
日常レベルでは仕事の業務を普通に楽しんでいて「社会人である自分」に疑問を感じずに過ごしてます。それなのに何とも言えない違和感が常に流れていました。「なんか違う、なんか違う」と心のどこかで感じていたんですね。
そのような感じで「対外的な自分」と「違和感を覚えている内側の自分」の解離感が日に日に大きくなっていくなかで、普段は普通に仕事をしつつも、その一方で仕事や日常生活への興味を徐々に失っていきました。
「生きること」について根本的な疑問を感じる毎日を過ごすようになり、「哲学的っぽいこと」なテーマが頭から離れなくなりました。他界した身内や友人について、自分が生まれてきたこと、人はなぜ生きているのか、そして生命自体について、死ぬことについて、色々と日々あれこれ考えているうちに、自分が存在していること自体がとても不自然なことのように思えてきたんですね。そして当時は哲学書や宗教書、古典文学などに答えを求めていました。
小難しく哲学的なことについてシリアスにあれこれ考えるなんて、はじめは一時的なものだと思っていました。しかし、何かを探している自分の気持ちが一向に冷めることはなく、一時のものではないことに自分が一番驚いていたことを記憶しています。
その状態が半年以上は(いや一年以上かな?覚えてない!)続いていて、自己の内面では緊張感と悲壮感が日に日に増していきました。
日頃の雑談や仕事関係の話題がこれまで通り続く一方で、常にその背後で自分の頭にこびりついているのは「生への根源的な疑問」。日常レベルの社会的な話題と、私が内的に求めている話題の差が大きくなればなるほど、バランスを取れなくなっていきました。
変わらず仕事は続けていましたが、自分がいったい毎日を何をしているのかわからない、なぜ自分が存在しているのかわからない、何がどうなっているのか分からない、という状態が続き、少しずつ精神が変になっていきました。
ついには、壁一面に巨大な蜘蛛が張り付いていると思い込み本気で恐怖を感じていたり、線路から呼ばれる声がして吸い込まれるように近づいてあと少しで線路に飛び込みそうになったり、今思うとヤバイ精神状態に陥っていたように思います。
さらに、感覚が尋常じゃなく研ぎ澄まされていき、すべての感覚が自分自身に突き刺さるようになりました。
人の何気ない視線や一言が、ほんとにナイフで刺されたように自分自身のハートに突き刺さり、普通に立っていられないほどに傷つくようになっていったのです。いちいち心がえぐられるような苦しさで、言葉で人は人を”切る”ことが本当にできるのだということを身をもって知ったのもこのときです。
ある日、人は誰でも死ぬときは1人なんだという思いが、これまで感じたことのない孤独感をもって私を襲いました。「人間はいつか死ぬ」ということは、もちろんそれまでも知っていたものの、その当時のピンと張り詰めた精神状態では、その孤独感はもう生き殺しの刑みたいな、どこにも助けを求められないもう断崖絶壁であとは落ちるしかない、という絶望感でした。あの絶望感をどのように表現すればいいのか、私の語彙力と表現力では的確なものが見つからないのですが。
そんな状態で仕事を続けているわけですから、当然仕事も以前みたいに普通にできなくなってきていたのですけど、なんとか普通を装って過ごしていました。
しかし、ついにある日、仕事中に大人数を前に話す場で、発言中に自分のロジックが全くなくなっていることに気づきます。「私は何を話しているんだろう、なぜここにいるんだろう、この人たちはだれだろう、自分はだれだ。。。」といった感じで世界が遠のく感覚を強烈に味わいました。
体調が悪いフリをして逃げるように退散しましたが、いよいよ自分が本当にやばいことになっているようでした。その後、その仕事の粗相に対して、当時とても信頼していた上司から見放されるような言葉を耳にして「あぁもう自分は存在してはいけないんだ」と強く思うようになり、ますます追い詰められた状態に。。。
(今となっては上司の一言も何かひどいことを言ったわけじゃないと分かります、でも結局当時は何を言われても突き刺さってしまう張り詰めた精神状態だったのだと思います。)
あのときの自分の感覚を今はもうリアルには思い出せないのですけど、どのくらい切羽詰まっていたかは、私が当時「赤信号」だけが救いの場所だったことから想像できます。赤信号だったら「前に進まなくていい」ですよね。「止まっていてもいい」という、そのわずかな数十秒が唯一気が抜けるタイミングでした。「進まなくていいということに正当性があるし、誰にも責められないはずだ。」と、許された感覚を得られる貴重な時間だったのですね。
私がここで強調しておきたいことは、私のこれらの出来事そのものがポイントなのではなく、「当時私の感受性が、自分にとっての極限まで張り詰めていた」というメンタルの脆さです。これは一般的にうつ病とか何かしらの精神病といわれているのだろうと思います。ただ、病名をつけることに今となっては意味がありません。いずれにしても当時の信じがたいほどのシリアス度やあらゆることに対する不安感、猜疑心、解離感、孤独感はかなり強いネガティブなエネルギーとして私の内に溜まっていたはずです。
世の中には私よりも心身ともに絶望的な体験をしている人はもちろんいるでしょうし、もっともっと過酷な経験をしている人ももちろんいます。自分の労働環境は快適ではなかったですが、劣悪な職場はいくらでもありますよね、上記の一連の苦悩も若手社会人としてありがちな「自分探し」に過ぎない、と捉えることもできます。
ただ、その当時の自分にとっては、何もかもが本当に”シリアス”で、人が何気なく放った冗談のような一言でも何時間も涙を流してしまう脆さをもっていたということ、それと同時にこの世界に対して果てしない解離感を感じていたために、傷ついていても誰にも助けを求めることができない極めて孤独な状態だったということです。
ハートはちゃんと傷つくのに目の前の世界はモノクロで、そこに自分が参加している感覚がないんですね。「おいしい」「楽しい」といった人間的な感覚がどんなものだったか思い出せず、文字通り”モノクロ世界”で誰か知らない他人として生きている感覚に陥る毎日でした。
(後々わかったことですが↑の現象は「離人症」と言われているそうで、ストレスを強く感じている時に現実から逃げるために起こる症状とのこと。まぁそれほどストレスを感じていたということですね。)
絶望を受け入れた後のどんでん返し
精神状態がますます悪くなっていくなかで、仕事でも信用を失うような状態になり、もう人目に出ることも許されない、自分はもう社会にいたらダメな存在だと追い詰めるようになっていったその数日後、通勤電車に乗っている際に、空をぼーっと眺めていました。
眼前の移りゆく景色を眺めつつ、落ちきった気持ちを他人事のように感じていたとき、ふと前向きな気持ちが出てきました。
「もういまの状況は変わらないのだから、とりあえずこの状況を受け入れるしかないんじゃないか。」
「どうなるかわからないけどもう全部諦めよう、どうにでもなればいい」
と半ば投げやりになって、「もうどうでもいいや」「なんでもいいや」と思ったのです。
そして、自分の中から、ふわっと何かが抜けた気がしました。
その瞬間、起こりました。
これから話すことはおそらくトータル1、2秒で起きたことです。そしてここから少々ぶっ飛んだ話になりますので、信じられない人は信じなくても結構です。エンターテイメントとして楽しんでください。(でも、本当に起きた話です。)
窓の景色の先にあった大木が一瞬バァーと非常に強い光を放射したかと思うと、木が大爆発したかのごとく分散し、そのうちの大きな塊が一気に私のほうに飛んできました。
とその瞬間、目の前で光が旋回するように自分を包み、その光がそのまま自分の内側に入ってきました。ダイレクトに、強烈なエネルギーと共に入ってきました。そのとき、私は自分自身が光と一体になったように感じました。
そしてその光と一緒に、というよりも「光としての自分」が持ち上げられ、これまた一瞬で上空に飛んでいきました。
そしてそのまま、ほぼ同時と言ってもいいぐらいの瞬間的な流れで宇宙に移動しました。はっきりと”宇宙”と分かったわけではありませんが、地球を突き抜けたような感覚がありました。
そして、宇宙(らしきところ)から地球を見下ろして、何か自分の記憶ではない映像みたいな走馬灯のようなものが一瞬駆け巡りました。
その映像みたいなものが一瞬で去ったあと、声が聞こえました。
いや、声というより、そのとき自分が浮かんでいた宇宙空間全体に響いていた大きな音。ヴォイス。サウンド。空間全体に漂っているような音。頭のてっぺんから足の爪先まで、全身に深く深く響く音です。すごく大きな音なんだけれども耳障りな感じは無く、優しい音でした。
その音が表現していること、伝えようとしていることが、なぜか瞬時にわかりました。日本語でもないし、何語なのかそもそも言語でもなかった気がするのですが、音と言語の境界がそもそもなかったため、100%そのまま意味がわかったんですね、不思議なことに。疑問の余地のない100%です。音からのメッセージの意味をいま日本語にしてしまうと、非常に陳腐に聞こえて正直イヤなのですが、表現していることは明確でした。
『すべては愛。すべてはひとつ。』
このメッセージの根源的な意味を私は本当に本当にその瞬間に会得して、「そうだった」「そうだったよな」とまるで昔は当たり前に知っていたのに完全に忘れていたような、久々に思い出したような感覚に陥りました。そして、果てしなく深い安堵を味わいました。
まさに”原点回帰”とはこういうことか、という感じでした。「疑問をはさむ余地がない」という言葉がぴったりで、絶対的な気づきでした。
心身にこびりついていたあらゆる恐怖が抜け落ち、これまで世界は敵だらけと感じていた感覚もなくなり、孤独感も消えて、そもそも自分が世界のすべてだったのだと当たり前のように気づいたのです。
そして、諸々の不安や恐怖がぜんぶサァーーーーってなくなっていく感覚を味わったと思ったら、、、電車で変わらず窓の向こうを眺めている自分に戻っていました。
そして私は涙を大量に流していました。
意味不明なほど大量に流れる涙を急いで拭いながらも、唖然として状況が飲み込めずにいました。
大木から光が放射されて、最後涙を流している自分に気づくまで、もしかすると一秒もなかったかもしれません。でもハイパースローモーションで、”すごくなにか大事なもの”を全部見て、聞いて、吸収した、という感じでした。
もちろん、周りにいた人に光は見えていませんし、電車の天井を実際にぶち破って宇宙に飛んでいったわけではありません。
でも、行ったんですね、意識がどこかに。確かに。そして、疑いようのないヴォイスを聴きました。何かとてつもなく大きなものに包まれました。
そしてそれまで自分を苦しめていたものが、一瞬にして抜け落ちました。
電車の中に戻ったときには、直前まで感じていた落ち込みや苦しみは完全になくなっていました。すべては絶対的に大丈夫なんだという気持ちが自分自身を満たしていました。
完全なる愛、とゆう言葉はスピリチュアルすぎて言うのも恥ずかしくなるのですけど、それしか表現のしようがありません。
この一連の出来事が終わって、電車の中で変わらず窓の景色を眺めている自分に気づいたとき、めちゃくちゃ周りをキョロキョロしました。自分の感覚としては実際には起こったことだったので、周りの電車の乗客の人が普通にあの光を見ずにいることが理解できませんでした。
「今の見ましたよね!?見ましたよね!?宇宙飛んでいきましたよね!?」とは言いませんでしたが、誰か同じことを今体験した人がいたら、同じようにキョロキョロして真実かどうかを確かめようとするはずだと。
でも、乗客の人はいたって普段通りの様子で、それぞれ携帯電話をいじったり本を読んだり寝ていたりと何も変わったことはありません。名もなき市民に誰かが壮大なドッキリをするとは考えられず、自分だけが体験したことなのだと受け入れました。そして、その後何事もなかったかのようにいつも通り出勤しました。
以上が私の一瞥体験です。
本当に一瞬の出来事でした。
そして、この一瞬の体験の余韻が、今も私を生かしています。
あの光は私の中で今も生きており、生への安堵、大いなる存在との一体感や信頼が失われることはありません。
「スピリチュアルな覚醒とは何か」と、もし聞かれたら、そもそも言葉なんかでは語り得ないというのが前提ではあるのですが、あえて言語にするならば「この世界にこれまでもこれからも永遠に遍く存在する満ち溢れる愛に、魂が感応し、自分を含めた森羅万象に歓喜すること」だと、私は答えるでしょう。
一瞥体験の落とし穴
実はこの強烈な一瞥体験後の数日間は、摩訶不思議なことがたくさん起こりました。
音楽を聴くと、一つ一つの音が命をもっていることがわかったし、その作者が伝えたかったメッセージがダイレクトに響いてきました。音に思いが言葉通り「乗っている」ことが分かりました。
外を歩いていると植物や自然が歌を歌っているのが伝わってきて、自分も喜ばずにはいられない。自分の目の前に人が存在しているということ自体が嬉しくてたまらない。その人がいま生きているということが嬉しすぎる。何をしていても、何を見ても、何を聞いても世界が愛に満ち溢れていて、涙を流さずにはいられない、という状態が数日間続きました。
また、左脳が司る「言語」の存在が人間の知覚能力を限りなく狭めていることも分かりました。存在に名前をつけることによって私たち人間が認識・理解できていると思っていることは、単に「境界線」を作っているだけであり、それ自体を表しているわけではないこと。そもそもの「存在」がどれだけ奇跡なのか、ということをそれまでの自分が何も知らなかったことに気づきました。
世界が生まれ変わったような、至福の数日間でした。
しかし、
一瞥体験後の至福の体験は徐々になくなり、普段の感覚が戻ってきます。そして、いつも通りの生活になります。
もちろん、一瞥体験の時の気づきは自分の中に残っているし、それが薄まることもなかったのですが、実際的に日常はやってくるわけです。その際に経験することになったのが、私の場合神秘体験後特有の虚無感でした。
確かに、私は一瞥体験がなかったら、どうやってあの後の人生を過ごすことができたのが想像もつかないし、あの体験がきっかけで精神世界を勉強することになったり、海外を旅するようにもなったので、色々な意味で本当に生涯忘れられないありがたい経験だと思っています。
ただ、圧倒的な癒し、圧倒的な自己受容を経験し、ぜんぶそのままでいいんだという気づきを得たものの、日常の自我レベルの自分での理解が追いついていなかったためか、「そのままでいい」とメッセージを知らず知らずのうちに曲解し、その後かなり長い期間虚無感を感じていたことも事実です。
この世は幻想だという気づきは、人生という舞台を楽しもうとする前に「幻想なら何しても結局意味ないよね」という思いへと変わり、行動を起こす力を失わせていきました。これは一瞥体験・神秘体験の典型的な落とし穴なのではないかと思います。
とはいえ、私の場合、虚無の状態からとにかく動こうと思って、旅行に行ったり語学の勉強をしたりゆるく仕事をしたりもして、最終的には海外に住むことにもなるのですが、その流れの中でも、「ぜんぶ意味ないよね」という気持ちはいつも通底して流れているのです。
前知識なく、図らずして一瞥体験を経験した人は特に、私のような虚無感に陥ることがよくあるそうです。その地点でさらに病んでしまう人もいるそうなので、そういう意味では私は幸いなことにまだ比較的平穏に過ごせたのではないかと思います。遠回りはしましたが。
一瞥体験後の「探求の終わり」について
偶然にも私は一瞥体験で圧倒的な癒しを体験し、世界観がひっくり返ったと断言できる忘れられない経験をしました。ですが、一瞥体験後に私の人生がスピリチュアルな方向に突き進んでいったかというと「そうでもない」とゆうのが本当のところです。
世界観がひっくり返ったものの体験が壮大かつ非現実的過ぎたため、伝えることは不可能だと感じていました。代わりに淡々と外国語の勉強に励んだり、写真を撮ったり一人旅で放浪したり、最終的に海外に住むことになったり、といった感じで、どちらかというとスピリチュアルなこととは関係のない行動をとっていました。
一瞥体験をしたからといって誰もがそのまま真理を言語で伝えられるかどうかは別だと私は思っていて、私にはそれができそうにないので今後も一瞥体験に関する活動をする予定はありません。
私は普段、西洋占星術に携わっていますが、一瞥体験からの気づきをセッション中にお伝えすることも特にありません。一瞥体験は一瞥体験として、占星術は占星術として、少し異なるレイヤーで捉えているんですね。
ではなぜ、今回、自分の体験をシェアしようと思ったかというと、もしかしたら私の体験を話すこと自体が、同じような体験をした人や、いつか体験するかもしれない人にとって、何か役に立つかもしれないと思ったからです。それと何よりも、私自身、一瞥体験後の個人的探求みたいなものが「ひとまず終わったな」としばらく前に感じたからです。
当時、一瞥体験のような不思議な出来事をシェアできる身近な仲間はいませんでしたし(周りの人間は”怪しい話”を敬遠する人が多かった)、かといって仲間を作りたいとも思わなかったため、これまでどちらかと言うと単独で探求してきました。暗中模索・五里霧中で歩んできたのですが、もう時間の経過が何かを解決したのかなと今は感じています。
でも実は、何を解決したのかはわかっていません。
ただ、一瞥体験後からゆるやかにずーっと続いていた「孤独な探求が終わった」「もうこれからはこの現世で普通に楽しんで生きていこう」とふと心底思えた瞬間がはっきりとありました。普通に暮らすことを楽しもうと自然と思えたんですね。普通に暮らすことの尊さを自覚したというか。この気づきを得た際の視界の開け具合は爽快でした。
まぁ探求して何がわかったかというと、特に何もわかってないのですが、笑
とりあえず今日のところは、私の一瞥体験はこうだった、という体験談を中心にお伝えしてみました。
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この世界でもう一度生き直すということ
一瞥体験後、私はこの現実世界(?)でゆるやかな矛盾と葛藤を経つつ、しばらく前にやっと吹っ切れて(まだ100%じゃないけど)もう一度ここで普通に生きていくことを決意したところです。
すべては幻だと自覚しながらも、この人生ゲームをできる限り有意義に楽しんで生きていこうと。むしろこれまで以上に現世を味わい尽くそうと。なので、人としての欲望に対しても割とウェルカムで、さらには欲望やエゴに苦しんでしまうのもウェルカム、そしてお金やモノなど物質的繁栄を自分が望むのであれば地球体験としてしっかり追求したいとも思っています。望んでいるのにそれが手に入らない、という状況もある意味すごく面白いことなのです。
ちなみに一瞥体験後、しばらく海外で暮らしてからまた日本に帰ってきたときに私はとても重要な発見をしました。自分が一瞥体験で聞いた「森羅万象の源は一つで、世界は愛で成り立っている」ということを、記憶としては分かってはいても自分自身がそれを「体現して生きていなかった」ことに気づいたのです。あんなに確信的に真理を見せてもらったはずだったのに、自分の日々の生きる姿勢として示していなかったんですね。
なぜ体現できていなかったのか。それは、ずっとあの一瞥体験の記憶に執着していたことに起因します。物事を直接的に体験することよりも、何かにつけてあの時の体験と比較してしまう。「超えるものが出てこない」と現実世界と当時の体験とを比較していたのではないかと思います。
さらには「世界は愛で成り立っていて、一つなんだから、それを信じて生きていけばうまくいく”はず”だ」と結局のところ一瞥体験の教えを「信じようとするだけ」で、その気づき自体を生きることをしていなかったのです。もちろん無自覚でしたが。
でもしばらく前に、自分が一瞥体験に実はとても囚われていたことに気づき、突然おかしくてしょうがなくなりました。人間のエゴの滑稽さに拍手喝采、色々おかしくて最終的には愛おしさすら感じました。海外まで行って自分は何を必死に探していたのだろうと。全てはいまここにあるのに、と。
そして「あれ?今まで何してたんだ!?この世界を、日々の暮らしを、普通に味わったらいいだけじゃないか。ただ全力で生きたら良いんだ!そうだ生きよう!」と、とてつもなく素直に思える瞬間があったのですね。すごいシンプル!今を生きるだけ!
それが、この記事の冒頭あたりで述べた「一瞥体験後の個人的探求がひとまず終わったと最近感じた」というところに繋がります。
一瞥体験で私は一度生まれ変わり、帰国後にまた生まれなおしたのではないかと思います、おそらく。
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私にできること
一瞥体験のことは一生忘れないと思いますが、単純に脳の働きとしては記憶自体は薄れていくと思います。当時のことをリアルな感覚では想起できなくなってくるだろうとも思います。
しかし、あれほど一瞬のことであったにも関わらず、向こうの世界が真実だという認識については現在も揺らぐことはなく、疑問がありません。人間としてどれだけ社会の中で生きていたとしてもそれは変わらないでしょう。それほど確信的な体験であり、永続的な余韻があります。
私自身の未熟さ、ノイズやエゴゆえに、もちろんいろいろと迷走はしますが、私の中にはやはりまだあの時の光が流れていて、それはすでに私の一部になっていて、この先消えてしまうものではないだろうとも思います。(そして実はこの光は本来誰もが内包しているものだと今では分かります。)
ホラー映画は今でも怖いし、外国に行ったらやっぱり怖いし、ゴキブリは本当に嫌いだし、死ぬときにはできる限り苦しまずに死んでいきたいと思います。好きなものを買って、好きなものを食べて、好きな人とずっと楽しく生きていたいとも思います。
でも、死の後には戻る場所があるという感覚が確かすぎるぐらいにあります。死んだら帰るだけだしな、という感覚が本気で根付いているのも確かです。
残念ながら、一瞥体験のあとにドラマチックに霊能力が開花したとも思えないし、特別な人生展開が起きたわけでもありません。むしろ地味な人生です。不快なことや理不尽なことは社会で暮らしているとそれなりにありますが、何よりもそういったことに執着しない、囚われないようになった、つまり自分を苦しめることを選ばなくなったことが大きな変化だといえます。
でも、現在も普通の人間の感覚だからこそ、普通の人としてこの世界でこれからも色々と楽しんでいきたいですし、できれば色々な経験を積んで死んでいったほうが魂は愉快に思うだろうとも思います。
一瞥体験をしたからと言って、私には正直何か強く伝えたいことがあるわけではありません。わからないことが多すぎます。社会的規範の思考で考えたら、宇宙に飛ぶとかないですよね。
ただ、もし一瞥体験前の当時の自分みたいに「世界はみんな敵で、自分は存在する価値がない」と思っている人がいるのであれば、もっと世界は信頼するに値するし、あなたも存在する価値があるし、「全くもってそのままでいいんだ」ということを伝えたいと思っています。できれば相手の両肩をがっしり掴んで。
まぁそれが相手に響くかどうかは分からないのですけど、そう言ってくれる人が当時1人でもいたらとても心強かっただろうなと思うからです。嘘でも本当でもどっちでもいいから、何かそういう言葉を「誰か」に言ってもらえることを当時の自分は無意識ながら待っていたのです。
「そのままでオールオッケーなんだ」「あなたは生まれてきただけで完璧なんだ」と言われることは、ある苦しい状況下にいる人にとっては人生に希望を取り戻すきっかけになり得ます。通常の生活意識だと向上心がないとか「ただの弱い人間」だとジャッジされてしまうかもしれませんが、そのたった一言がまた生き直すきっかけや生きたいと思える活力源にもなります。
精神の破綻と引き換えに言葉の力を痛感した自分として、これからの人生では”命”の視点から言葉を紡ぐことを心がけたいと思っています。愛を体現していくために、人間が授かった言葉というギフトを大切に使っていきたいと思っています。
なんとなーく軽い気持ちで放ったネガティブな言葉や、安易に相手を非難したり攻撃する言葉は、あなたが思っている以上に相手の、そして何より自分自身の心を、深く深く切り刻んでいるかもしれないのです。
誰もがもっと自分を大事にしていいし、他者含め地球全体のことを大切にするのが当たり前になる世の中へと変えていきたいですね。
本来人は存在しているだけで完全です。その完全性を取り戻してほしいと心から願います。
ということで、そんな感じです。
大変長くなりましたが、
本日はこのあたりで。
おまけ
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↑雰囲気変わって、こちらはライトな感じでスピリチュアル本の紹介をしています。Kindle版限定。スピリチュアルって何ですか、という方は手始めにkindleでいろいろ読んでみるのが良いかもしれません。
私のような一瞥体験をした人にはその後の道に悩まれる方も多いと思います。アジャシャンティの下の本が役立つかもしれません。一瞥体験後、どのように歩むのがいいのか参考になりそうです。