悟りの一瞥体験。突然のスピリチュアルな覚醒が私にもたらしたこと

一瞥体験_スピリチュアルな目覚め スピリチュアル

こんにちは、サリーです。

本日は、私が約10年ほど前にある日突然経験した神秘体験、いわゆる『悟りの一瞥体験』について話したいと思います。

一瞥体験前のきっかけ・兆しはどんなものだったか、そして実際に起きた目覚めの体験がどんな様子だったか、一瞥体験を経て自分がどう変わったかなど、一個人の体験記録です。

スピリチュルな覚醒や一瞥体験に関心のある人、そして実際に一瞥体験をして現在混乱している人のなにかご参考になりましたら幸いです。

一瞥体験とは?スピリチュアルな覚醒とは?

まず「一瞥体験/神秘体験」という言葉になじみがない方のために、一瞥体験・神秘体験とは何なのかと一言でいうと、「スピリチュアルな覚醒・目覚め」のことです。”ニルヴァーナの世界”、つまりこの世界のすべては遍く愛であることに魂レベルで気づく体験、といったところでしょうか。

「一瞥体験」と「悟り」を同じ意味で使う方もいらっしゃるかと思うのですが、私の場合、持続的な悟り・覚醒の状態に常にいるわけではなく、あくまでの「悟りの一瞥体験」です。

つまり、一瞬、悟った状態になり、またしばらくして通常の意識状態に戻る、という一時的な覚醒体験。精神世界でいわれている悟りの世界を「かいま見た」という意味での『一瞥』体験として本記事ではお伝えしたいと思います。

一瞥体験で経験する圧倒的な目覚めが持続・定着することを「覚醒状態」「悟り状態」と言ったりするそうで、この覚醒している人がスピリチュアルリーダーになったり、非二元(ノンデュアリティ)を常時生きることができるのかなと思います。

再度お伝えしておきますが、私の場合目覚めは定着しておらず、持続的な覚醒ではありません。つまり、いたって普通の人間です。私は悟りました、なんてこと口が裂けても言えません、笑

元々スピリチュアルな事柄に興味のある人は、一瞥体験や覚醒体験を経験するとその経験を元に、色々活動する方が多いのかなという印象ですが、私の場合本来スピリチュアルな世界に全く興味がなかった人間です。社会人として世俗的に成功することを目指していました。

ただ一瞥体験後は、さすがに強制的なスピリチュアルな感覚の目覚めがあったので、必然的に現世でのさまざまな欲が極限まで薄れ、昔漠然と目指していた”成功”を目指すことにも興味が本当になくなりました。

従来の日本的な働き方や日本社会の中で過ごすことにも関心がなくなり、海外で1人旅をするようになり、そのあと結果的に2年ほどイギリスで暮らし、そのあともフラフラ放浪しつつ、再び日本に戻ってきました。

一瞥体験後しばらく続いた”至福状態”が消えてからは、しばらく厭世主義に陥ってしまい、いま思うと完全に世捨て人状態で生きていたのですが(笑)、そこから再びさまざまな心境の変化があり、「この世界を普通に楽しんで生きよう」という感覚が戻ってきたのがつい最近です。

ということで、一瞥体験後も非二元のお話などを誰かに伝えるわけでもなく、どちらかと言うと社会での自己実現を重視している立場として、今日は私に起こった体験をシェアしたいと思います。

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体験談の前に。一瞥体験後の「探求の終わり」について

再び少し前置きです。

偶然にも私は一瞥体験で圧倒的な癒しを体験して、世界観がひっくり返ったと断言できる忘れられない経験をしました。ですが、一瞥体験後に私の人生がスピリチュアルな方向に突き進んでいったかというとそうでもないとゆうのが本当のところです。

世界観がひっくり返ったものの人に伝えようがなかったので、むしろ淡々と外国語の勉強に励んだり、写真を撮ったり一人旅にハマったり、その結果海外に住むことになったり、といった感じで、どちらかというとスピリチュアル生活にハマることもなくアクティブな行動をとってきたのではないかなと思います。

一瞥体験をしたからといって誰もがそのまま真理を言語で伝えられるかどうかは別だと私は思っていて、むしろ言語で伝えることは不可能だと感じているので今後も一瞥体験に関する活動をする予定はありません。(まぁ私の気づきが浅かったからなのかもしれませんが!w)。

私は普段占星術セッションを行っていますが、一瞥体験からの気づきをセッション中にお伝えすることも特にありません。一瞥体験は一瞥体験として、占星術は占星術として、違うレイヤーで捉えているんですね。

ではなぜ、今回、自分の体験をシェアしようと思ったかというと、もしかしたら私の体験を話すこと自体が、同じような体験をした人や、いつか体験するかもしれない人にとって、何か役に立つかもしれないと思ったからです。それと何よりも、私自身、一瞥体験後の個人的探求みたいなものが「ひとまず終わったな」としばらく前に感じたからです。

一瞥体験のような不思議体験をシェアできる身近な仲間がいなかったため(周りの人間はそういう
”怪しい話”を敬遠する人が当時多かった)、一瞥体験の意味のワカラナサを誰かと分かち合ったりすることはなく、体験後もどちらかというと単独で探求してきました。

一瞥体験、神秘体験という言葉も、体験後に色々と調べるなかで、そういった現象が精神世界にはあるということを初めて知るに至った、という流れで。

相談したところでどう考えてもあの体験のリアルな感覚を伝えることはできないなと、勝手に諦めの気持ちになって、暗中模索・五里霧中で歩んできたんですね。いや、模索してきたというか、もう時間の経過が何かを解決したのかなと思います。

でも実は、何を解決したのかはわかっていません。

ただ、一瞥体験後からゆるやかにずーっと続いていた孤独な探求が終わった、もうこれからはこの現世で普通に楽しんで生きていこうと、ふと心底から思えた瞬間がはっきりとありました。「普通に暮らすことを楽しもう」と自然と思えたんですね。普通に暮らすことの尊さを自覚したというか。この気づきを得た際の視界の開け具合は爽快でした。

さて、探求して何がわかったかというと、特に何もわかってないんです、笑。

自分の辿ってきた道が正しかったかどうか、なんて当然わからないし、そもそも正解があるかどうかにも関心はないのですが、、、、またいつか探求の道のりのこともシェアできればいいなとも思います。

とりあえず今日は、私の一瞥体験はこうだった、という体験談を中心に振り返ってお伝えできればと思います。

では次に一瞥体験前の私自身の状況について話していきます。

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一瞥体験前の兆し。当時の状況について

2008年のことです(2009年かな。記録がないので正確なところは曖昧)。

当時私は、猛烈に働いていて深夜までは当たり前、締め切りで徹夜をすることも日常的にある生活を送っていました。 仕事自体はやりがいもありましたし、上司も心から尊敬していたので、このまま頑張って一人前になって、独立して成功するんだ、と奮闘していました。

仕事に関することを日々せっせと勉強して、時間が少しでもあれば学びの場に足を運んだり、業界の最新情報もフォローして、といった感じで本当に”四六時中”仕事のことを考えていました。

でもその一方で、底知れない虚無感というかアホらしさというか、心のとても深いどこかでは「全然これじゃない」という感覚を静かに、でもしつこく、感じていたような気がします。

日常レベルでは仕事の業務を普通に楽しんでおり、「社会人である自分」に疑問を感じずに過ごしてます。それなのに、違和感がある。なんか違う、なんか違う、みたいなことを自分の中のどこかで感じていたんですね。

で、そんな感じで「対外的な自分」と「なんか違うと感じている内側の自分」の解離感が日に日に大きくなっていくなかで、普段は普通に仕事をしつつも、その一方で仕事や日常生活への興味を徐々に失っていきました。

「生きること」について根本的な疑問を感じる毎日を過ごすようになり、いわゆる「哲学的」なテーマが頭から離れないようになりました。

他界した身内や友人との過去の思い出、自分が生まれてきたこと、なぜ生きているのか、そして生命自体について、生死について、色々と日々あれこれ考えているうちに、自分が存在していること自体がとても不自然なことのように思えてきたんですね。そして当時は哲学書や宗教書、古典文学などに答えを求めていました。

幸い、その頃の上司は宗教や哲学に造詣が深い人で、色々な話題を語り合うことができ、今となっては本当にありがたかったなと感じています。

小難しく哲学的なことについてシリアスにあれこれ考えるなんて、はじめは一時的なものだと思っていました。でも、何かを探している自分の気持ちが一向に冷めることはなく、一時のものではないことに自分が一番驚いていたことを記憶しています。

その状態が半年以上は(いや一年以上かな?覚えてない!)続いていて、自己の内面では緊張感と悲壮感が日に日に増していきました。

日頃の雑談や仕事関係の話題がこれまで通り続く一方で、常にその背後で自分の頭にこびりついているのは「生への根源的な疑問」。日常の社会的な話題と、私が内的に求めている話題のが差が大きくなればなるほど、バランスを取れなくなっていきました。

変わらず仕事は続けていましたが、自分がいったい毎日を何をしているのかわからない、なぜ自分が存在しているのかわからない、何もかもワカラナイという状態が続き、少しずつ変になっていきました。

ついには、壁一面に巨大な蜘蛛が張り付いていると思い込んで本気で恐怖を感じたり、線路から呼ばれる声がして吸い込まれるように近づいてあと少しで線路に飛び込みそうになったり、今思うとかなりやばい精神状態に陥っていたように思います。

さらに、感覚が尋常じゃなく研ぎ澄まされていき、すべての感覚が自分自身に突き刺さるようになりました。

人の何気ない視線や一言が、ほんとにナイフで刺されたように自分自身のハートに突き刺さり、普通に立っていられないほどに傷つくようになっていったのです。いちいち心がえぐられるような苦しさで、言葉で人は人を”切る”ことが本当にできるのだということを身をもって知ったのもこのときです。

ある日、人は誰でも死ぬときは1人なんだという思いが、これまで感じたことのない孤独感をもって私を襲いました。人間はいつか死ぬということは、もちろんそれまでも知っていたものの、その当時のピンと張り詰めた精神状態では、その孤独感はもう生き殺しの刑みたいな、どこにも助けを求められないもう断崖絶壁であとは落ちるしかない、という絶望感でした。あの絶望感をどのように表現すればいいのか、私の語彙力と表現力では的確なものが見つからないのですが。

そんな状態で仕事を続けているわけですから、当然仕事も以前みたいに普通にできなくなってきていたのですけど、なんとか普通を装って過ごしていました。

しかし、ついにある日、仕事中に大人数を前に話す場で、発言中に自分のロジックが全くなくなっていることに気づきます。何を話しているのかワカラナイ、なぜここにいるんだろう、この人たちはだれだろう、自分はだれだ。。。といった感じで世界が遠のく感覚を強烈に味わいました。

体調が悪いフリをして逃げるように退散しましたが、いよいよ自分が本当にやばいことになっているようでした。その後、その仕事の粗相に対して、当時とても信頼していた上司から突き放されるようなことを言われてしまい、「もう自分は存在してはいけないんだ」と強く思うようになり、ますます追い詰められた状態に。。。

(今となっては上司の一言もそんなひどいことを多分言ったわけじゃないと分かります、でも結局当時は何を言われても突き刺さってしまう張り詰めた精神状態だったのだと思います。)

あのときの自分の感覚を今はもうリアルには思い出せないのですけど、どのくらい切羽詰まっていたかは、私が当時「赤信号」だけが救いの場所だったことから想像できます。赤信号だったら「前に進まなくていい」ですよね。「止まっていてもいい」という、そのわずかな数十秒が唯一気が抜けるタイミングでした。進まなくていいということに正当性があるし、誰にも責められないはずだ。何もしなくてもいいと許された感覚を得られる貴重な時間だったのですね。

私がここで強調しておきたいことは、私のこれらの出来事そのものがポイントなのではなく、「当時私の感受性が、自分にとっての極限まで張り詰めていた」というメンタルの脆さです。これは一般的にうつ病とか何かしらの精神病といわれているのだろうと思います。ただ、病名をつけることに今となっては意味がないと思うし、当時の信じがたいほどのシリアス度やあらゆることに対する不安感、猜疑心、解離感は言葉で表せないほどの底知れないマイナスのパワーを持っていたことは間違いありません。

私よりも心身ともに絶望的な体験をしている人はもちろんいるでしょうし、もっともっと過酷な経験をしている人ももちろんいます。自分の労働環境は良くはなかったですが、もっとひどいところはいくらでもありますよね、上記の一連の苦悩も若手社会人としてありがちな「自分探し」だったともいえます。

ただ、その当時の自分にとっては、何もかもが本当に”シリアス”で、人が何気なく放った冗談のような一言でも何時間も涙を流してしまう脆さをもっていたということ、それと同時にこの世界に対して果てしない解離感を感じていたために、傷ついていても誰にも助けを求めることができない極めて孤独な状態だったということです。

ハートはちゃんと傷つくのに目の前の世界はモノクロで、そこに自分が参加している感覚が全くなかったのです。「おいしい」「楽しい」といった人間的な感覚がどんなものだったか思い出せず、文字通り”モノクロ世界”で誰か知らない他人として生きている感じでした。

(後々わかったことですが、↑の現象は「離人症」と言われているそうで、ストレスを強く感じている時に現実から逃げるために起こる症状だそうです。まぁ要は、それほどストレスを感じていたということですね。)

絶望を受け入れた後のどんでん返し

精神状態がますます悪くなっていくなかで、仕事でも信用を失うような状態になり、もう人目に出ることも許されない、自分はもう社会にいたらダメな存在だと追い詰めるようになっていったその数日後、通勤電車に乗っている際に、空をぼーっと眺めていました。

眼前の移りゆく景色を眺めつつ、落ちきった気持ちを他人事のように感じていたとき、ふと前向きな気持ちが出てきました。

「もういまの状況は変わらないのだから、とりあえずこの状況を受け入れるしかないんじゃないか。」

「どうなるかわからないけどもう諦めよう、どうにでもなればいい」

と半ば投げやりになって、「もうどうでもいいや」「なんでもいいや」と思ったのです。

そして、自分の中から、ふわっと何かが抜けた気がしました。

その瞬間、起こりました。

これから話すことはトータル1、2秒で起きたことです。そしてここからぶっ飛んだ話になりますので、信じられない人は信じなくても全然OKです。エンターテイメントとして楽しんでください。(でも、本当に起きた話です。)

窓の景色の先にあった大木が一瞬バァーと光を放射したと思ったかと思うと、木が大爆発したかのようにその大きな塊が一気に私のほうに飛んできました。

とその瞬間、目の前で光が旋回するように自分を包み、その光がそのまま自分の内側に入ってきました。ダイレクトに、確実に、入ってきたんですね。そのとき、私は自分自身が光と一体になったように感じました。

そしてその光と一緒に、というよりも「光としての自分」が持ち上げられて、これまた一瞬で上空に吹き飛ばされたのです。

そしてそのまま、ほぼ同時と言ってもいいぐらいの同時性で宇宙に飛んでいきました。はっきりと宇宙とわかったわけではありませんが、とにかく地球を突き抜けた感覚がありました。

そして、宇宙(らしきところ)から地球を見下ろして、何か自分の記憶ではない映像みたいな走馬灯のようなものが一瞬駆け巡りました。

その映像みたいなものが一瞬で去ったあと、声が聞こえました。

いや、声というより、そのとき自分が浮かんでいた宇宙空間全体に響いていた大きな音。ヴォイス。サウンド。空間全体に漂っているような音。頭の天辺から足の爪先まで、全身に深く響く音です。すごく大きな音なんだけれども、耳障りな感じは無くて優しい音でした。

その音が表現していること、伝えようとしていることが、なぜか瞬時にわかりました。日本語でもないし、何語なのかそもそも言語でもなかった気がするのですが、音と言語の境界がそもそもなかったので、100%そのまま意味がわかったんですね、なぜか。これをいま日本語にしてしまうと、すごく陳腐に聞こえて正直イヤなのですが、表現していることは明確でした。

『すべては愛。すべてはひとつ。』

この意味を私は本当に本当にその瞬間に同時に深く会得して、「そうだった」「そうだったよな」とまるで昔は当たり前に知っていたのに完全に忘れていたような、久々に思い出したような感覚に陥りました。そして、果てしなく深い安堵を味わいました。まさに”原点回帰”とはこういうことか、という感じでした。

心身にこびりついていたあらゆる恐怖が抜け落ちて、これまで世界は敵だらけと感じていた感覚もなくなり、孤独感も消えて、そもそも自分が世界のすべてだったのだと当たり前のように気づいたのです。

そして、諸々の不安や恐怖がぜんぶサァーーーーってなくなっていった感覚を味わったと思ったら、、、電車で変わらず窓の向こうを眺めている自分に戻っていました。

そして私は涙を大量に流していました。

意味不明なほど大量に流れる涙を急いで拭いながらも、唖然として状況が飲み込めずにいました。

大木から光が放射されて、最後涙を流している自分に気づくまで、もしかすると一秒もなかったかもしれません。でもハイパースローモーションで、”すごくなにか大事なもの”を全部見て、聞いて、吸収した感じだったんですよね。

もちろん、周りにいた人には光は見えていませんし、電車の天井を実際にぶち破って宇宙に飛んでいったわけではありません。

でも、行ったんですね、意識がどこかに。確かに。そして、音を聞いた。何かとてつもなく大きなものに包まれた。一瞬にして、いろんなものが抜け落ちた。

電車の中に戻ったときには、直前まで感じていた落ち込みや苦しみは完全になくなっていました。軽い。すごい軽い。すべては絶対的に大丈夫なんだという気持ちが自分自身を満たしていました。

完全なる愛、とゆう言葉はスピリチュアルすぎて言うのも恥ずかしくなるのですけど、それしか表現のしようがありません。

この一連の出来事が終わって、電車の中で変わらず窓の景色を眺めている自分に気づいたとき、めちゃくちゃ周りをキョロキョロしました。自分の感覚としては実際には起こったことだったので、周りの電車の乗客の人が普通にあの光を見ずにいることが理解できませんでした。

「今の見ましたよね!?見ましたよね!?宇宙飛んでいきましたよね!?」とは言いませんでしたが、誰か同じことを今体験した人がいたら、同じようにキョロキョロして事の真実を確かめようとするはずだと。

でも、乗客の人はいたって何事もなく、それぞれスマホいじったり本を読んだり寝てたりいつも通りです。名もなき市民に誰かが壮大なドッキリをするとは考えられず、自分だけが体験したことなのだと受け入れました。そして、何事もなかったかのようにいつも通り出勤しました。

以上が私の一瞥体験です。本当に一瞬の出来事でした。

そして、この一瞬の体験の余韻が、今も私を生かしているといえます。

あの光は私の中で今も生きており、生への安堵、偉大なる存在への信頼が失われることはありません。

「スピリチュアルな覚醒とは何か」と、もし聞かれたら、そもそも言葉なんかでは語り得ないというのを前提ありきなのですが、あえて言語にするならば、「この世界にこれまでもこれからも永遠に遍く存在する満ち溢れる愛に、魂が感応し、自分を含めた森羅万象に歓喜すること」だと、私は答えるでしょう。

一瞥体験の落とし穴

実はこの強烈な一瞥体験後の数日間は、摩訶不思議なことがたくさん起こりました。

音楽を聴くと、一つ一つの音が命をもっていることがわかったし、その作者が伝えたかった生命の喜びがダイレクトに響いてきました。音に思いが言葉通り「乗っている」ことが分かりました。

歩いていると太陽に照らされている植物が歌を歌っているのが伝わってきて、自分も喜ばずにはいられない。自分の目の前に人が存在しているということ自体が嬉しくてたまらない。その人がいま生きているということが嬉しすぎる。何をしていても、何を見ても、何を聞いても世界が愛に満ち溢れていて、涙を流さずにはいられない、という状態が数日続きました。

左脳が司る「言語」の存在が人間の知覚能力を限りなく狭めていることも分かりました。存在に名前をつけることによって私たち人間が認識・理解できていると思っていることは、単に「境界線」を作っているだけであり、それ自体を表しているわけではないこと。そもそもの「存在」がどれだけ奇跡なのか、ということをそれまでの自分が何も知らなかったことに気づきました。

世界が生まれ変わったような、至福の数日間でした。

スピリチュアルな修行をしている人からすると、特に修行をすることもなく、突然こんな神秘体験ができるなんてラッキーだと思われることもあります。

でも、一瞥体験後の至福の体験は徐々になくなり、普段の感覚が戻ってきます。そして、いつも通りの生活になります。

もちろん、一瞥体験の時の気づきは自分の中に残っているし、それが薄まることもなかったのですが、実際的に日常はやってくるわけです。その時に出くわすのが、神秘体験をしたあと特有の虚無感です。

確かに、私は一瞥体験がなかったら、どうやってあの後の人生を過ごすことができたのが想像もつかないし、あの体験がきっかけで精神世界を勉強することになったり、海外を旅するようにもなったので、色々な意味で本当に生涯忘れられないありがたい経験だと思っています。

ただ、圧倒的な癒し、圧倒的な自己受容を経験し、ぜんぶそのままでいいんだという気づきを得たことが徐々に良くない方向に進んでしまって、その後かなり長い期間虚無感を感じていたことも事実です。

この世は幻想だという気づきは、人生ゲームを楽しもうとする前に「幻想なら何しても結局意味ないよね」という思いへと変わり、行動を起こす力を失わせていきました。これは典型的な落とし穴です、一瞥体験・神秘体験の。何もなくてもそれで本当にいいと思っていたんですね。

とはいえ、私の場合、虚無の状態からとにかく動こうと思って、旅行に行ったり語学の勉強をしたりゆるく仕事をしたりもして、最終的にはイギリスに住むことにもなるのですが、その流れの中でも、ぜんぶ意味ないよねっていう気持ちはいつも通底して流れているのです。

図らずして一瞥体験を経験した人は特に、私のような虚無感に陥ることがよくあるそうです。その地点でさらに病んでしまう人もいるそうなので、そういう意味では私は幸いなことにまだ比較的平穏に過ごせたのではないかと思います。遠回りはしましたが。

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この世界でもう一度生き直すということ

そして私は一瞥体験後、この現実世界でゆるやかな矛盾と葛藤を経つつ、しばらく前にやっと吹っ切れて(まだ100%じゃないけど)もう一度この世界で普通に生きていくことを決意したところだといえます。

すべては幻想だと知りながら、その幻想を意識的に楽しんで生きていこうと。

芝居だとわかりながら、わかったうえでやっぱりこれまで通りに、いやこれまで以上に現世的に生きていこうと。

ある時期世俗的なものをかなり毛嫌いした時期もあったし、出家するしかないと思ったこともあったし、お金も仕事も人間関係ももうほんとにどうでもいいと思っていたし、それまで仲の良かった友人や大事な人も実感として遠い存在になりました。

個人的感情みたいなものが薄れて、自分が育ってきた環境を型どっていた枠(というか鎖)みたいなものが取れたんですね。色々なことが別にネガティブな意味ではなくほんとどうでもよくなったのです。

一瞥体験のあと、しばらくして事の重大さに気づいて、調べ始めて色々なことがわかるようになったけど、それすらも、「ふーん、なるほどね」ぐらいの感じだったと思います。

ただ、同時にとにかく動き続けた方が良いなとも感じていました。当時の自分なりに、何かを考えてベストだと思う道を選択してきたとは思います。

そして、巡り巡って海外でしばらく過ごし、また日本に帰ってきて、この数年を振り返ったとき、自分が一瞥体験で聞いた「森羅万象の源は一つで、世界は愛で成り立っている」ということを、記憶としてはわかっていても自分自身がそれを「体現して生きていなかった」ことに気づきました。あんなに確信的に真理を掴んだはずだったのに、日々の生きる姿勢として示していなかったのです。

なぜ体現できていなかったのか。それは、ずっとあの一瞥体験に執着していたことに起因しているのではないかと思います。物事を直接的に見ることよりも、何かにつけてあの時の体験と比較してしまう。超えるものが出てこない、とどこかで思っていた。

世界は愛で成り立っていて、一つなんだから、それを信じて生きていけばうまくいくはずだ、と結局のところ、一瞥体験の教えを「信じるだけ」でその気づき自体を生きることをしていなかったのです。無自覚でしたが。

でもしばらく前に、自分が一瞥体験にとんでもなく囚われていたことに再び気づいて、突然おかしくてしょうがなくなりました。人間のエゴの滑稽さに拍手喝采、自分のしてきたことがおかしくて一周回って愛おしさすら感じました。

そして「あれ?今まで何してたんだ?この世界を、普通に、味わったらいいだけじゃないか。ただ全力で生きたら良いんだ!」とすごく素直に思える瞬間があったのですね。すごいシンプル。

それが、この記事の冒頭あたりで述べた「一瞥体験後の個人的探求がひとまず終わったと最近感じた」というところに繋がります。

一瞥体験で私は一度生まれ変わり、帰国後にまた生まれなおしたのではないかと思います、メンタル的に。

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私にできること

一瞥体験の「記憶」は、薄れていきます。もちろん一生忘れることはないと思いますが、単純に脳の記憶は薄れていくので、当時のことをリアルな感覚では想起できなくなってきます。

でも、生きることに対しての信頼というのは、あれ以来一度も、それこそ一秒も揺らいでいません。世界に対する信頼。人に対する信頼。生への信頼。大いなる存在に対する信頼。そして人生の根底には絶対的な安堵がある。

私自身の未熟さ、エゴゆえに、もちろんいろいろと迷走はしてしまいますが、私の中にはやはりまだあの時の光が流れていて、それはすでに私の一部になっていて、この先消えてしまうものではないだろうとも思います。

ホラー映画は今でも怖いし、外国にいったらやっぱり怖いし、ゴキブリは嫌いだし、死ぬときにはできる限り苦しまずに死んでいきたいと思います。

でも、死のあとには戻る場所があるという感覚が確かすぎるぐらいにある。死んだら帰るだけだしな、という感覚が本気で根付いているのも確かです。

残念ながら、一瞥体験のあとにドラマチックに霊能力が開花したとも思えないし、特別な人生展開が起きたわけでもない。むしろ地味な人生です。嫌いなことや理不尽なことは社会で暮らしているとそれなりにありますが、何よりもそういったことに執着しない、囚われないようになった、つまり自分を苦しめることを選ばなくなったことが大きな変化です。

でも、今も普通の人間の感覚だからこそ、普通の人としてこの世界でこれからも色々と楽しんでいきたいし、できれば色々な経験を積んで死んでいったほうが魂は愉快に思うだろうとも思います。

一瞥体験をしたからと言って、私には正直何か強く伝えたいことがあるわけではありません。わからないことが多すぎる。社会的規範の思考で考えたら、宇宙に飛ぶとかないですよね、普通。

ただ、もし、一瞥体験前の当時の自分みたいに「世界はみんな敵で、自分は存在する価値がない」と思っている人がいるのであれば、もっと世界は信じるに値するし、あなたも存在する価値があるし、「全くもってそのままでいいんだ」ということを、目をまっすぐ見て言おうとそれだけは決めています。できれば相手の両肩をがっしり掴んで。

まぁそれが救いになるかはわからないのですけど、そう言ってくれる人が当時1人でもいたら心強かっただろうなと思うからです。嘘でも本当でもどっちでもいいから、何かそういう言葉を「誰か」に言われることを、当時の自分は無意識ながら待っていたように思います。

「そのままで良いんだよ」と言ってもらえることがどれだけ救いになるか。通常の生活意識だと「ただの弱い人間」だと思われてしまうかもしれませんが、極限状態に陥っている人にとってはその一言が文字通り”生きる理由/生きる活力源”になります。

精神の破綻と引き換えに言葉の力を痛感した自分として、これからは”命”の視点から言葉を紡ぐことを心がけたいと思います。愛を体現していくために、人間が授かった言葉というギフトを大切に使っていきたいと思っています。

深い意味も無くなんとなーく軽い気持ちで放った言葉や、安易に相手を攻撃する言葉は、あなたが思っている以上に誰かの心を深く深く切り刻んでいるかもしれないのです。

誰もがもっと自分を大事にしていいし、自分以外の人のことも大事にするのが当たり前になる世の中へと変えていきたいですね。

本来人は存在しているだけで完全です。その完全性を取り戻してほしいと心から願います。

(はじめの方で一瞥体験の関連記事をまた書きますと言ったけれど、もう書かないような気がします。)

では、長くなりましたが、

本日はこのあたりで。


おまけ

関連記事→ スピリチュアル本を探索するのにまずはKindle Unlimitedをオススメしたい件

↑雰囲気変わって、こちらはライトな感じでスピリチュアル本の紹介をしています。Kindle版限定。スピリチュアルって何ですか、という方は手始めにkindleでいろいろ読んでみるのが良いかもしれません。

私のような一瞥体験をした人にはその後の道に悩まれる方も多いと思います。アジャシャンティの下の本が役立つかもしれません。一瞥体験後、どのように歩むのがいいのか参考になりそうです。

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