目覚めの一瞥体験。スピリチュアルな覚醒体験が私にもたらしたこと

一瞥体験 スピリチュアル

こんにちは、占星家のサリーです。

本日は、私が約10年前に体験した「一瞥体験」についてお話します。

このブログでは星読みだけでなくスピリチュアルなことも多く発信していますが、今日の記事はその中でも特にスピリチュアル度が強いと思います。「そんな不思議な世界があるんだなぁ」ぐらいに思っていただけたらと思います。

  • 目覚めの一瞥体験とは何か?
  • 一瞥体験のきっかけや前触れはどのようなものだったのか?
  • 実際に起きた一瞥体験はどのようなものだったのか?
  • 体験後の自分の変化や人生観の変化は?
  • そして、その体験を経験した今、自分に何ができるのか?

など現在感じていることも含め、一個人の体験談です。

スピリチュアルな覚醒や一瞥体験に興味を持つ方、神秘体験の事例を探している方、また実際にご自身が一瞥体験をして現在混乱している方のお役に立てましたら幸いです!

一瞥体験とは?スピリチュアルな覚醒体験とは?

覚醒体験とは

「一瞥体験」や「神秘体験」という言葉に馴染みがない方もいるかもしれません。これは一言で言うと、「スピリチュアルな覚醒・目覚め」のことを指します。

「ニルヴァーナの世界」「光の体験」と表現されることもあります。

世界が根源では一つであること(ワンネス)を魂のレベルで気づく体験、といったところでしょうか。

「一瞥体験」と「悟り」という言葉を同義語として使う方もいらっしゃるかと思うのですが、私の経験は一時的な覚醒体験であり、悟りや覚醒の状態が常時続いているわけではありません。このような場合、一時的な目覚めという意味で「一瞥(いちべつ)」と表現するのがより適切だと思います。

私はいたって普通の人間です。ある日突然スピリチュアルな悟り体験をしたものの、「私は悟りました」とは到底言えません。

元々、私はスピリチュアルな世界に興味がありませんでした。ですが一瞥体験を経てスピリチュアル感覚が呼び起こされたため、物欲や社会的成功への欲求が薄れ、それまでの生き方や価値観に強く違和感を感じるようになったんですね。

それ以降、私は会社を辞め、フリーになり、海外で1人旅をするようになり、数年間海外で生活しました。その後もあちこち放浪しつつ、再び日本に戻ってきたのが5年ほど前のこと。

一瞥体験後の「至福の状態」が消えた後は、しばらく厭世主義に陥ってしまい世間離れした生活を送っていたのですが、最近になり「この世界を普通に楽しんで生きよう」という感覚が戻ってきて、色々吹っ切れた、というのが今です。

というわけで、一瞥体験後にノンデュアリティ(非二元)の歩みを伝えるわけではなく、別の面から魂レベルの自己実現を日頃人々に促進している立場として、今日は私が経験した体験をシェアしたいと思います。

この記事があなたのスピリチュアルな覚醒や成長の一助となれば幸いです。

一瞥体験前の兆し。当時の状況について

覚醒体験

一瞥体験前の兆し、そして当時の状況についてお話します。一瞥体験前の自分の精神状態は少し特殊でしたので、それが引き金になったことは明らかです。

また、実際に複数の方から同じような精神状態で同じような覚醒体験をしたことを聞きました。一瞥体験の引き金にはパターンみたいなものがあるかもしれませんので、当時の私自身の様子をお伝えしておくことにも意味があると感じています。

2008年から2009年のことだったと記憶しています。

当時、私は会社員として猛烈に働いており、深夜や明け方まで働くのは日常茶飯事で、納期の都合上徹夜することも珍しくありませんでした。 未来への野望と希望を抱きつつ、仕事に全力投球でした。

強烈な虚無感と違和感に襲われる

一方で、仕事というものに対して希望や夢を抱いていたはじめの数年が過ぎると、

心の底から沸き上がる虚無感や孤独感に襲われ始めました。

「全然違う」

そんな感覚が、静かに、でもしつこく、漂っていたんですね。

日常的な仕事は楽しんでおり、社会人としての自分を普通に受け入れていました。しかし、何とも言えない根本的な違和感が常に流れていました。「なんか違う、全くこれじゃない」と心のどこかで感じていたのです。

そうして、外向きの自分と内側との自分との乖離感が増していく日々。普通に仕事を続けつつも、仕事や日常生活への関心は次第に薄れていきました。

「生きること」そのものに対する根本的な疑問を抱くようになり、自分が存在していること自体がとても不自然に思えるようになり。。。

そして当時、私は哲学書や宗教書、古典文学などから答えを見つけようとしていました。

なぜ自分が存在しているのか分からなくなった

哲学的なことについて深刻に考えることは、最初は一時的なものだと思っていました。しかし、非常に深刻に何かを求めている自分の感情が全く醒めることがなく、一時的なものでないことに私自身が最も驚いていたことを覚えています。

その状態が続いたことで、自身の内面にある緊張感と悲壮感がますます強まっていく日々の中、日常の背後に常に存在していたのは「存在そのものに対する根源的な疑問」。

「なぜ自分がこの世界に存在しているのか分からない」という状態が続き、少しずつ精神が変になっていきました。

ついには、壁一面に巨大な蜘蛛が張り付いていると本気で思い込んで恐怖を感じたり、線路から声が聞こえて吸い寄せられるように近づき、線路に飛び込む寸前になったり、今考えるとヤバイ精神状態に陥っていたと思います。

さらに、感覚が異常に研ぎ澄まされていき、全ての感覚が自分自身に突き刺さるようになりました。

人の何気ない視線や一言が、文字通り心を突き刺すナイフのように感じられ、立っていることすら辛くなるほどに傷つきました。

心がえぐられるような苦痛の中で、

「言葉で、人は人を”切る”ことが本当にできるのだ」

ということを身をもって経験したのもこの時期です。

極限の精神状態の中で最後の引き金が引かれる

そしてついに、私は仕事中に、突然自分が何を言っているのか分からなくなり、周りの人々も誰なのか、なぜここにいるのかすら皆目分からなくなりました。それはまるで世界から切り離され、自己と世界が全く接続していないような感覚に陥りました。

「この人(自分のこと)は何を話しているんだろう、なぜここにいるんだろう、前にいる人たちはだれだろう。。。」

私は体調が悪いフリをして逃げるように退散しました。その後、上司からの見放しモードの少々ドライな言葉により、私の心はさらに追い詰められ、「自分はもう存在してはいけないんだ」という思いに囚われていきました。

(今となっては上司の一言もひどいことを言ったわけじゃないと分かります、でも結局当時は何を言われても突き刺さる精神状態だったのかなと。)

もちろん、世の中には私よりもっと厳しい環境で働いている人々や、私の当時の状況よりも遥かに劣悪な職場環境も存在します。私の苦悩も、ある意味では若手社会人が経験する「自分探し」だったと言えます。

いずれにしても当時の私は、他人が何気なく放った一言にも深く傷つき、涙を流すほどに脆く、この世界に対して深い解離感を感じていました。その結果、自分がどれほど傷ついていても、誰にも助けを求めることができない孤独な状態に陥っていたのです。

そして、その極限の精神状態が引き金となり、一瞥体験を経験することになったのだと、今となっては分かります。

(※当時の「世界との解離感」については離人症と呼ばれることを後で知りました。医師に診断してもらったわけではないですが。一説によると一瞥体験をする人は結構な確率で離人症を体験するとかなんとか。)

絶望を受け入れた後のどんでん返し

覚醒体験_一瞥した日

精神的に非常に不安定な状態で過ごしていたある日のことです。通勤電車に乗っていて、ぼんやりと空を眺めていました。

眼前の移りゆく景色を眺めつつ、落ちきった気持ちを他人事のように捉えていたとき、突如として前向きな気持ちが湧いてきました。

「もういまの状況は変わらないのだから、とりあえずこの状況を受け入れるしかないんじゃないか。」

「どうなるかわからないけどもう全部諦めよう」

と半ば投げやりになって、

「もうどうでもいいや」

と思ったのです。

その時、ふわりと何かが自分から抜け出ていく感覚がありました。

そして次の瞬間、信じられないことが起こります。

これから話すことはおそらくトータル1、2秒で起きたこと。不思議な出来事ですが、100%実話です。


窓の向こうの大木が一瞬強烈な光を放射したかと思うと、木が大爆発したかのごとく光が分散し、そのうちの大きな塊が一気に私のほうに飛んできました。

とその瞬間、目の前で光が旋回するように自分を包み、その光がそのまま自分の内側に入ってきました。ものすごい勢いで、強烈なエネルギーと共に。

そのとき、私は自分自身が光と一体になったように感じました。

そしてその光と一緒に、というよりも「光としての自分」が持ち上げられ、これまた一瞬で上空に飛んでいたかと思うと、、、

そのまま、ほぼ同時と言ってもいいぐらいの瞬間的な流れで宇宙に移動しました。

はっきりと”宇宙”と分かったわけではありませんが、地球を突き抜けたような感覚があったことは確かです。

宇宙(らしきところ)から地球を見下ろし、何か自分の記憶ではない映像みたいな走馬灯のようなものが一瞬駆け巡りました。その流れの中に自分の記憶や人生が全て含まれていることがなぜか分かったことを覚えています。

そして、その映像(みたいなもの)が一瞬で去ったあと、声が聞こえました。

いや、声というより、そのとき自分が浮かんでいた宇宙空間全体に響いていた大きな音。

ヴォイス。空間そのものが発する音。

頭のてっぺんから足の爪先まで、全身に深く深く響く音なのです。すごく大きな音なのだけど、耳障りな感じは無く、優しい音でした。

その音が表現していること、伝えようとしていることが、なぜかこれまた瞬時にわかりました。日本語でもないし、何語なのかそもそも言語でもなかった気がするのですが、音と言語の境界がそもそもなかったため、100%そのまま意味がわかったんですね、不思議なことに。

疑問の余地のない100%です。

音からのメッセージの意味をいま日本語にしてしまうと、非常に陳腐に聞こえて正直イヤなのですが、表現していることは明確でした。

『すべては愛。すべてはひとつ。』

このメッセージの根源的な意味を私は本当に本当にその瞬間に感得して、

「あぁそうだった、そうだったよね」

と腑に落ちました。まるで昔知っていたけれど忘れていたことを思い出したかのように感じ、果てしなく深い安堵を味わいました。

まさに”原点回帰”とはこういうことか、という感じで。「疑問をはさむ余地がない」という言葉がぴったりで、絶対的な気づきです。

心身にこびりついていたあらゆる恐怖が抜け落ち、世界は敵だらけと思っていた感覚も消え、孤独感も消えました。そして、自分自身が世界の全てだと気づきました。

その後ハッと気がつくと、、、

電車で変わらず窓の向こうを眺めている自分に戻っていたのです。

そして、私は大量の涙を流していました。

意味不明なほど溢れ続ける涙を急いで拭きながら、自分の身に起こったことが一体何なのか、全く理解できませんでした。

大木から光が放射されて、最後涙を流している自分に気づくまで、もしかすると一秒もなかったかもしれません。宇宙に飛んだ一連の流れの中では時間感覚が消えてましたが、実際には電車で一駅分の時間(5分程度)も無かったことは確かです。

でもハイパースローモーションで、「すごくなにか大事なもの」を全て見て、聞いて、吸収したんですよね。何が理解できたのかは分からないのに、全てが完全に大丈夫で、自分がもう全く問題ないことを確信しました。

もちろん、周りにいた人に光は見えていませんし、電車の天井を実際にぶち破って宇宙に飛んでいったわけではありません。

でも、間違いなく、意識が遥か遠いどこかに行ったのです。そして、疑う余地のないヴォイスを聴いた。何かとてつもなく大きな存在に包まれた。そしてそれまで自分を苦しめていたものが、一瞬にして抜け落ちたのです。

電車の中に戻ったときには、直前まで感じていた息苦しさや憂鬱や不安は完全になくなって、すべては絶対的に大丈夫なんだという気持ちだけが自分を満たしていました。

「完全なる愛」もうこれだけです。

完全なる愛だなんてあまりにもスピリチュアルで文字にすることすら恥ずかしいのですが、でもこれ以外表現のしようがありません。

この一連の出来事が過ぎて、電車の中で変わらず窓の景色を眺めている自分に気づいたとき、めちゃくちゃ周りをキョロキョロしました。自分の感覚としては実際には起こったことだったので、周りの電車の乗客の人が普通にあの光を見ずにいることが不思議でたまりません。

「今の見ましたよね!?見ましたよね!?宇宙飛んでいきましたよね!?」とは言いませんでしたが、誰か同じことを今体験した人がいたら、同じようにキョロキョロして真実かどうかを確かめようとするはずだと。

でも、乗客の人はいたって普段通りの様子で、それぞれ携帯電話をいじったり本を読んだり寝ていたりと何も変わったことはありません。

名もなき市民に誰かが壮大なドッキリをするとは考えられず、自分だけが体験したことなのだと受け入れました。そして、その後何事もなかったかのように、いつも通り出勤しました。

以上が私の一瞥体験です。

本当に一瞬の出来事でした。圧倒的な光の体験でした。

そして、この一瞬の体験の余韻が、今も私を生かしています。

あの光は今も私の中にあり、生への安堵感、大いなる存在との一体感、そして信頼が失われることはありません。(とはいえ、、、時に怖れが優位になり、波動が下がり、自分も皆も光の存在であることを忘れることはありますが。)

もし「スピリチュアルな覚醒とは何か」と聞かれたら、言葉では語り尽くせないという前提がありますが、それでもあえて表現するなら、「この世界にこれまでもこれからも永遠に遍く存在する満ち溢れる愛に、魂が感応し、自分を含む森羅万象に歓喜すること」だと、私は答えるでしょう。

一瞥体験、その後の様子

一瞥体験_スピリチュアルな覚醒

実はこの強烈な一瞥体験の後の数日間には、不思議なことがたくさん起こりました。

音楽を聴くと、一つ一つの音が命をもっていることがわかったし、その作者が伝えたかったメッセージがダイレクトに響いてきました。音に思いが言葉通り「乗っている」ことが分かったんです。

外を歩いていると植物や自然が歌を歌っているのが伝わってきて、自分も喜ばずにはいられない。目の前に人が存在しているということ自体が嬉しくてたまらない。その人がいま生きているということが嬉しすぎる。

何をしても、何を見ても、何を聞いても、世界が愛に満ち溢れていて、歓喜の涙を流さずにはいられない状態が数日間続きました。

また、左脳が司る「言語」の存在が人間の知覚能力を限りなく狭めていることも分かりました。存在に名前をつけることによって私たち人間が認識・理解できていると思っていることは、単に「境界線」を作っているだけであり、それ自体を表しているわけではないこと。そもそもの「存在」がどれだけ奇跡なのか、ということをそれまでの自分が何も知らなかったことに気づいたんですね。

世界も自分も完全に生まれ変わったような、至福体験を得た数日間でした。

至福から虚無へ

しかし、

一瞥体験後の至福の時間は徐々に消え、普段の感覚が戻ってきます。そして、生活はいつも通りに戻ります。

もちろん、一瞥体験の時の気づきは自分の中に残っているし、それが薄まることもなかったのですが、実際的に日常はやってくるわけです。その際に経験することになったのが、私の場合神秘体験後特有の虚無感でした。

確かに、私は一瞥体験がなかったら、どうやってあの後の人生を過ごすことができたのが想像もつかないし、あの体験がきっかけで精神世界を勉強することになったり、海外を旅するようにもなったので、色々な意味で本当に生涯忘れられないありがたい経験だと思っています。

ただ、圧倒的な癒しと自己受容を経験し、全てがそのままで良いという気づきを得たものの、日常の自我レベルの左脳的理解が追いついていませんでした。無意識のうちに「全てがそのままで良い」というメッセージを曲解し、その結果、長い期間にわたり虚無感を感じてしまったのです。

”この世は幻想”という認識は、人生という舞台を楽しむ前に「幻想なら何しても結局意味ないよね」という考えに変わり、行動を起こす力を失わせました。これは一瞥体験・神秘体験の典型的な落とし穴なのかもしれません。

とはいえ、私の場合、虚無感から脱出するために、国内外を旅し、好きなことを学び、仕事も軽くしながら動き続けました。結果として海外に住むことにもなりました。しかし、その一連の流れの中でも、「全ては意味がない」という思いが常に通底して流れているのです。

神秘体験や一瞥体験についての知識が全く無い状態で突然覚醒した人たちは、私のように虚無に陥ることが少なくないようです。その中にはさらに深く苦しみ、ひどい場合だとそのまま病気になってしまう人もいるそうなので、そう考えると私はまだ比較的平穏に過ごせたと思います。遠回りをしてしまったとはいえ。

一瞥体験後の「探求の終わり」について

一瞥体験_探求の終わり

偶然にも私は、一瞥体験で世界観が丸々変わりました。

ですが、この世界観が変わった体験はあまりにも壮大で非現実的過ぎたため、伝えることは困難だと感じていました。そしてそれは今でも変わりません。

一瞥体験をしたからといって誰もがその真理を言語で伝えられるわけではないと私は思っています。私自身それができそうにないので、今後も一瞥体験に関する活動をする予定はありません。

私は普段、西洋占星術に携わっていますが、一瞥体験からの気づきをセッション中にお伝えすることも特にありません。一瞥体験は一瞥体験として、占星術は占星術としてそれぞれを異なるレイヤーで捉えているんですね。

ではなぜ今回、自分の体験をシェアしようと思ったのかというと、私の体験を話すこと自体が、同じような体験をした人や、いつか体験するかもしれない人にとって、何か参考になるかもしれないと思ったからです。

それと何よりも、私自身、一瞥体験後の個人的な探求が一段落ついたと感じたからです。

当時、一瞥体験のような不思議な出来事をシェアできる身近な仲間はいませんでしたし(周りの人間は「怪しい話」を敬遠する人が多かった)、かといって仲間を作りたいという思いもありませんでした。なので、これまでただ単独で探求を続けてきたのです。そしてもう時間の経過が何かを解決したのかなと今では感じています。

でも実際は、何を解決したのかはわかっていません。

ただ、一瞥体験後からゆるやかにずっと続いていた孤独な探求が終わり、「これからは現世で普通に楽しみながら生きていこう」と心底思えた瞬間がはっきりとありました。急に吹っ切れたんですね、自然と。

ただフツーに暮らすことの偉大なる尊さを自覚したといいますか、ただ楽しんで生きればOKなんだ、と気づいた時の視界の広がりは爽快でした。

まぁ、探求して何がわかったかと言うと、特に何もわかってないのですが(笑)

とりあえず今日は、私の一瞥体験がどうだったかという体験談を中心にお伝えしました。

一瞥体験後、この世界で再び生きるということ

覚醒体験_生き直す

一瞥体験を経て、私はこの三次元の世界での葛藤を経験しつつも、しばらく前にようやく決断しました。自分自身として、もう一度、この世界で楽しく生きようと。

すべては幻であると自覚しながらも、この人生という地球ゲームをできる限り有意義に生きようと思っています。むしろ、これまで以上に現世を味わい尽くそうと。

そのため、人間としての欲望に対しても割とウェルカムです。欲望やエゴに悩むことも楽しい。そして、もし自分がお金やモノ、つまり物質的な豊かさを望むのであれば、地球での体験としてそれを追求したいとも考えています。望んでいるのにそれが手に入らない、という状況もある意味、とても面白いことです。

ちなみに、、、一瞥体験後、しばらく海外で暮らし、再び日本に帰国した時に私は重要な発見をしました。

一瞥体験を通じて得た「森羅万象の源は一つで、世界は愛によって成り立っている」という確信を、記憶としては覚えていても、自分自身がそれを「体現して生きていなかった」ことに気づきました。

神がかり的とも言える不思議な出来事で、あんなに絶対的な真理を見せてもらったのに、生きる姿勢として日常生活では全く実践していなかったんですね。びっくりですよね。

なぜ体現できていなかったのか?それは私が一瞥体験の記憶に執着し続けていたからでしょう。

直接体験することよりも、何かあるたびにあの時の体験と比較してしまっていました。現実世界とあの時の体験とを無意識で比べ、「超越するものが出てこない」という思考パターンに陥っていたのです。

さらに、「世界は愛によって成り立っていて、すべては一つなのだから、それを信じて生きていけばうまくいくはずだ」と、結局のところ一瞥体験の教えを「信じようとするだけ」で、その気づき自体を生きることをしていませんでした。もちろん無自覚でしたが。

でもしばらく前に、自分が一瞥体験に実はとても囚われていたことに気づき、突然笑いがこみ上げてきました。自己のエゴの滑稽さに最終的には愛おしさすら感じました。海外まで行って、一体自分は何を必死に探していたのだろうと。全てはすでにここに存在するのに!

そして、ふと思いました。

「あれ?今まで何してたんだ!?

この世界を、日々の暮らしを、ただ味わえばいいだけじゃないか。

ただ全力で生きるだけでいいんだ!

そうだ、生きよう!」

と、とてつもなく素直に思える瞬間がありました。

すごくシンプル。ただ今を生きるだけ。

それが、この記事の冒頭部で触れた「一瞥体験後の個人的な探求がひとまず終わったと最近感じた」という部分に繋がります。

一瞥体験により私は一度生まれ変わり、帰国後に再び生まれ直したと思っています。

いまの私にできること

一瞥体験後_できること

一瞥体験のことは一生忘れないと思いますが、単純に脳の働きとして記憶自体は薄れていくと思います。当時のことをリアルな感覚では思い出せなくなるでしょう。

しかし、あれほど一瞬の体験であったにも関わらず、そこで見た世界が真実であるという確信は現在も揺らぐことはありません。人間としてどれほど社会の中で生きていたとしても、その確信は変わらないと思います。それほど強烈でした。

私自身の未熟さ、執着、ノイズやエゴゆえに、時々(いや頻繁に!)迷走することはありますが、私の中にはやはりまだあの時の光が流れていて、それはすでに私の一部になっていて、今後消えることもないだろうと思います。

(そして、この光は本来は誰もが内包しているものだと今では分かります。)

ホラー映画は今でも怖いし、海外に行ったらやっぱり怖いし、ゴキブリは本当に嫌いだし、死ぬときにはできるだけ苦しまないで死にたいと思います。好きなものを買って、好きなものを食べて、好きな人とずっと楽しく生きていたいとも思います。

でも、死の後には戻る場所があるという感覚があります。死んだらただ帰るだけだという感覚が根付いているのも確かです。

残念ながら、一瞥体験の後に特別な才能が開花したとは思えませんし、人生が特別な展開を見せたわけでもありません。社会で生きていれば、不快なことや理不尽なことは当然起こります。でも、それらに執着しない、囚われないようになったことが大きな変化だと思います。自分を苦しめることを選ばなくなったんですね。

これからも普通の人としてこの世界で楽しむつもりです。色々な経験を積んで死んでいったほうが魂は愉快に思うだろうとも思います。

神秘的な体験をしたとはいえ、正直なところ、「全てが愛だ」ということ以外には強く伝えたいことが私にはあるわけではありません。未だにわからないことが多すぎます。科学的に常識的に考えれば宇宙に飛ぶとかないですよね(でも確かに飛んだんですけどね)。

ただ、一瞥体験を経験する前の自分のように、「世界は敵ばかりで、自分に存在する価値はない」と思っている人がいるのなら、「世界はもっと信頼できるものだし、素敵なことは起こるし、あなたにも存在する価値がある」と伝えたいです。「まったくそのままでいいんだ」ということを伝えたいです。できれば相手の両肩をがっしり掴んで。

それが相手に響くかどうかは分からないのですけど、そんな風に言ってくれる人が当時1人でもいたら、私はきっととても勇気をもらえただろうと思います。嘘であろうと本当であろうと、そんな言葉を誰かに言ってもらえることを、当時の自分は無意識のうちに待ち望んでいたと思います。

「そのままでオールオッケーなんだ」「あなたは生まれてきただけで完璧なんだ」と言われることは、苦しい状況にある人にとって、人生に希望を取り戻すきっかけになり得ます。普通の生活では、「向上心がない」とか「ただの弱い人間」と評価されてしまうかもしれません。ですが、そのたった一言が、「生きたい」と思えるエネルギーを湧き起こすことがあるのです。

精神の破綻と引き換えに言葉の力を痛感した自分として、これからの人生では命の視点から言葉を紡ぐことを心がけたいと思っています。愛を体現していくために、人間に与えられた言葉というギフトを大切に使いたいと思っています。

だからこそ、このブログを運営し、ツイートで日々つぶやき、日夜セッションを通じてセッション業にも携わっています。一瞥体験のことを普段は語らないけれど、いまの自分にできることを全力でやっていくつもりです。

なんとなーく軽い気持ちで放ったネガティブな言葉や、安易に相手を非難したり攻撃する言葉は、あなたが思っている以上に相手の、そして何より自分自身の心を、深く深く切り刻んでいるかもしれないのです。

誰もがもっと自分を大切にしていいし、人や地球全体を大切にするのが当たり前になる世界へと変えていきたいですね。

本来、人は存在しているだけで完全です、本当に。その完全性を取り戻してほしいと心から願います。

以上が現在の私の思いです。

この記事があなたの役に立ったようであれば、嬉しい限りです。

大変長くなりましたが、

今日はこの辺で終わりにしたいと思います。ではでは。


おまけ

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↑雰囲気変わって、こちらはとてもライトな感じでスピリチュアル本の紹介をしています。Kindle版限定。スピリチュアルって何ですか、という方は手始めにkindleでいろいろ読んでみるのが良いかもしれません。

私のように一瞥体験をした人々は、その後の進むべき道に悩むことが多いと思います。そのような方には、アジャシャンティの以下の本が何かしら参考になると思います。一瞥体験後、どのように進むべきかについてのヒントが得られるのではないかと!

ではでは!